古墳に入っていた刀は、1コーナーの日本刀とは明らかな違いがあります。古墳時代の刀は、日本刀のように反りがなくまっすぐなため「直刀」といいます。曲がっていないということは、刺すことを主な攻撃方法として使っていたのだろうと考えられます。
市内からは、何本もの直刀が見つかっていますが、飾りのないシンプルなものと鹿の角や銀で飾られたものと大きくふたつにわかれます。飾られた刀は、飾りが珍しく高級品であると考えられることから、刀とともに葬られた人がそれだけ大きな力を持っていたということをうかがわせます。刀やその他の古墳に入っているものから、市内にも大きな力を持った王が何人かいたことがわかります。
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27.鉄刀〈山下町・大垣内古墳〉 市指定文化財
古墳時代後期(6世紀初頭) 亀山市歴史博物館所蔵
残っている部分の長さは51.9cmです。刀の先端と茎の目釘穴より先、つまり刀の両端が残っていません。観察してみると、刀全体に木が残っています。1コーナーで日本刀を紹介しましたが、日本刀は外側の鞘と柄に覆われています。この刀も同じように、鞘と把におさめられて古墳の中に入っていたと考えられます。
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鉄刀〈大垣内古墳〉
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28.鹿角装刀子〈山下町・大垣内古墳〉 市指定文化財
古墳時代後期(6世紀初頭) 亀山市歴史博物館所蔵
残っている部分の長さが24.4cmの小刀です。ほぼ全体が残っていますが、刃の先端と茎の端はありません。
この小刀には、鹿の角でできた飾りが鞘の口としてついています。鹿の角に直孤文(帯の文様に×印の文様をくみあわせた文様)を彫り、その文様の上に赤色を塗っています。
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29.刀子〈山下町・大垣内古墳〉 市指定文化財
古墳時代後期(6世紀初頭) 亀山市歴史博物館所蔵
残っている部分の長さが11.2cmの小刀です。刃の先端は残っていません。茎の部分には木が残っていますので、把があったと考えられます。大垣内古墳からは、鋸や鑿といった工具も出土していますので、この刀子も工具として使われたのかもしれません。
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刀子〈大垣内古墳〉
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刀子
刀子( 小刀)は、 実際に 武器として 使うというよりも、 装飾品としての 役割があったのかもしれません。 特に、 鹿角装刀子(出品番号28)のように 飾りがあるものは、そうした 傾向が 強いのではないでしょうか。
古墳時代の 後、 飛鳥時代(7 世紀)、 奈良時代(8 世紀)になると、 役人たちは 木簡( 木の 札)にメモをするようになります。そうすると、メモした 内容が 終われば、その 部分を 削ります。そのためには、 小刀が 必要となります。 私たちが、メモ 帳をめくるようなものですね。 当時の 役人にとって、 筆・ 墨とともに 仕事に 必ず 必要な 道具が 小刀でした。
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30.鉄刀〈川合町・柴戸遺跡第3次調査〉
古墳時代後期(6世紀半ば) まちなみ文化財室所蔵
東野公園の西側にある住宅団地を建てるための調査で見つかった鉄の刀です。長さは59.3cmで完全な形で残っています。やはり、刃や茎には木が残っていますので、鞘や把におさめられた刀であったと考えられます。
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鉄刀〈柴戸遺跡第3次調査〉
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柴戸古墳群
東野公園を建設するため、昭和62〜63年(1987〜1988)に発掘調査を行いました。調査によって、10基の古墳が確認されました。その後も団地を造るための発掘調査によって、さらに古墳が確認され、あわせて13基もの小さな古墳が見つかったのです。
古墳の大きさは力の大きさにつながると考えられていますので、ここに葬られた人たちはさほど大きな力を持っていたわけではないことになります。さらに、いくつもの古墳が小さな範囲にかたまってつくられていることから、家族でつくった古墳だと考えられます。東野公園のあたりですので、この家族の主な仕事は農業だっただろうと想像されます。以前ならば、古墳をつくることもできなかったのでしょうが、古墳時代後期には少し力をもった農民も小さな古墳をつくることができるようになったのです。
古墳の中からは、刀や小刀、鉄鏃(鉄の鏃)も見つかりましたので、柴戸古墳に葬られた人は、この地域の王を支えた力のある農民とみられます。発見された武具は農民には直接必要のないものですので、王との関係からもたらされたものだったのではないでしょうか。
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31.直刀〈川崎町・徳原14号墳〉
古墳時代後期(6世紀前半) まちなみ文化財室所蔵
残っている部分が48.5cmの直刀です。刃の部分のみですが、切先までほぼ完全な形で残っています。
刃の部分全体に木が残っていますので、鞘に入っていたことがわかります。横から見ると、刃の部分とその上下に1枚ずつ鞘の層があることが確認できます。
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直刀〈徳原14号墳〉
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徳原古墳群
26基の円墳(円形の古墳)と3基の方墳(四角形の古墳)という計29基の小さな古墳がかたまってつくられています。
昭和42年(1967)、工場を建てるために発掘調査を行いました。その結果、古墳がきちんと並ぶように作られていたことがわかりました。ひとつの場所を家族でお墓の場所としたのではないかとみられることから、家族や親戚といった血のつながりのある人々を葬った古墳群と考えられます。古墳をつくっていることや刀を一緒に葬っていたことから、徳原古墳群は、古墳のまわりの地域で力をもった家族の古墳だったのではないでしょうか。
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32.直刀〈和田町・釣鐘山古墳〉
古墳時代後期(6世紀前半) まちなみ文化財室所蔵
刀の長さは56.9cmで、ほぼ完全な形で残っています。刃には木が残っている部分があることから、鞘におさめられていたことがわかります。茎を見ると、把と茎をとめた目釘穴とみられる穴があいており、把があったこともわかります。
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直刀〈釣鐘山古墳〉
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33.直刀〈和田町・釣鐘山古墳〉
古墳時代後期(6世紀前半) まちなみ文化財室所蔵
残っている部分の長さは58.4cmです。刃の先端と茎のほとんどが残っていません。刃の中央部分や刃と茎の境目あたりの刃の上に、木が残っています。そのため、この刀は鞘に入っていたと考えられます。
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直刀〈釣鐘山古墳〉
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34.直刀〈和田町・釣鐘山古墳〉
古墳時代後期(6世紀前半) まちなみ文化財室所蔵
残っている部分は、長さ32.6cmの刃のみです。刃も両端はなく中央のみが残っています。残った刃の部分には木が付いていませんので、鞘におさめず裸のまま古墳に入れたのではないかと想像されます。
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直刀〈釣鐘山古墳〉
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石棺〈和田町・釣鐘山古墳〉
古墳時代後期(6世紀前半) 亀山市歴史博物館所蔵
石を組み合わせてつくった箱の形をした石の棺(組合式箱形石棺)です。底、蓋、右側面は1枚の石で、左側面は4枚の石でできています。蓋は203cmありますが、棺の中は165cmの長さです。つまり、この棺に葬られた人は、165cm以下の身長だったことがわかります。
また、棺の内側は赤色に塗られています。赤色は魔除けの意味がありますので、悪い物から亡くなった人を守ったのかもしれません。
蓋の内側をみてみると、縁が長方形に削られています。棺に蓋をかぶせたとき、ずれないように加工したと考えられます。
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石棺(釣鐘山)
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釣鐘山古墳
古墳のある山から土を採っていたため、古墳のほとんどが削られてしまいました。そのまま雨や風にさらされていたため、どんどん崩れ、釣鐘山古墳は姿を消すような危ない状況になっていました。そこで、昭和48年(1973)、急いで発掘調査を行うことになりました。
その結果、3本の直刀、2本の刀子、1本の鎌などといった鉄でできたもの、ガラスや銅でできた玉などが石の棺の中から確認されました。棺のほかには、たくさんの鉄の鏃がおさめられていました。複数の鉄の刀や鏃、玉が一緒に葬られていたことから、葬られた人は、地域の王であることがわかります。椋川の反対側には井田川茶臼山古墳や城山古墳があるため、この地域には力のある人が集まっていたことになります。
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35.鉄地竜文銀象嵌捩環頭大刀 〈みどり町・井田川茶臼山古墳〉
古墳時代後期(6世紀) 三重県埋蔵文化財センター所蔵
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紹介した古墳
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