これまで見てきた武具よりもっと昔の武具は、どんなものだったのでしょうか?
3世紀(1800年前)には、すでに木で作られた弓が使われていました。8世紀(1300年前)になると、地方ごとに「軍団」という部隊を持ち、それぞれが武具を備えていました。そして、10世紀(1000年前)の県内でも、武具の整備が続けられていたということがわかります。
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15.倭名類聚鈔 巻十三・十四
江戸時代前期(元和3年(1617)) 亀山市歴史博物館所蔵 明倫館文庫
16.魏志(東夷伝倭人条) 市指定文化財
明・万暦年間(1573〜1615) 亀山市歴史博物館所蔵 明倫館文庫
「くに」の誕生となった邪馬台国、そこを治めた女王が卑弥呼でした。この邪馬台国や卑弥呼についてまとめた書物が『三国志』の中の『魏志』東夷伝倭人条です。290年頃に完成しました。
ここには、邪馬台国のようすが記されています。中には武具(「兵」)についての記述もあり、当時は矛・楯・木弓を使っていたとあります。特に、木弓がどんなものかが解説されています。弓を握るあたりから下が短く、上が長いもので、今の弓と同じような形をしていたこと、矢の本体である箭は竹、先端にある敵に刺さる部分は鉄や骨でできたものを使っていました。鏃の実物は、3コーナーをご覧ください。市内では石と鉄でできた鏃が発見されています。
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魏志(東夷伝倭人条)
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魏志(東夷伝倭人条)解説付き
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17.令義解 巻五
江戸時代後期(寛政12年(1800)) 亀山市歴史博物館所蔵 明倫館文庫
古代の政治は、国から地方まで「律令」という法律に基づいて行われていました。この法律の中には、「軍防令」という軍事全般のことを定めた法令がありました。
この中で、一般の人から集めた兵士で地方ごとに「軍団」という部隊を持つこと、軍団の兵士たちが持つべき武具についても決められていました。兵士はひとりずつ、弓1張、矢50隻、胡籙(矢を入れて背負う道具)1具、大刀1口、刀子1枚などを持たなければなりません。甲と冑については定めていませんから、自分で用意する必要はなく、軍団で用意されていのだろうと考えられます。
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令義解 巻五
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令義解 部分解説
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軍団は、一般の人を集めて兵士にしていたんだって。
正丁(21歳〜60歳)の人、3人につき1人を兵士として集めるように決められていたんだよ。1000人で1つの軍団になるんだ。
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18.延喜兵部省式
江戸時代 亀山市歴史博物館所蔵 明倫館文庫
平安時代(延長5年(927)完成)に作られた、さきほどの律令を使うための細かい規則のひとつです。全国の兵士や兵器、軍事施設の管理など軍事関係の事務を行う役所である兵部省が管理する全国の武器について定めています。
伊勢国(今の三重県の大半。亀山市も伊勢国でした。)は、甲6領、横刀(大刀)20口、弓60張、征箭(箭)60具、胡籙60具を備えるべきとされています。
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延喜兵部省式
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延喜兵部省式 部分解説
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伊勢国は、他の国に比べてたくさんの武具を備えているのね!
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19.複製・伊勢国計会帳
(原資料:東京国立博物館所蔵,撮影:山崎信一氏) 亀山市歴史博物館所蔵
伊勢国計会帳は、1年間に伊勢国(現在の三重県の大半)が作ったり受け取ったりした書類の一覧です。このなかに、東海道沿いにあった「路次の団」が登場します。この「団」が軍団のことです。
天平8年(736)以前のようすを記録したものですので、1300年ほど前の伊勢国に、実際に一般の人で作られた軍団があったことがわかります。
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伊勢国計会帳
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伊勢国計会帳 部分解説
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