武具は戦いに使われるものですが、古代の戦いではどのように使われていたのでしょうか。戦いを記録した歴史書では、刀や弓を使ったこと、馬に乗って戦ったことがわかります。こうした姿は絵巻としても残されています。記録と同じかどうか比べてみましょう。
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20.日本書紀 巻二十七・二十八
江戸時代 個人蔵
天武天皇元年(672)、天智天皇の次の天皇を誰にするかを決める内乱(壬申の乱)が起こりました。現在の奈良県・滋賀県を舞台にして戦いがくりひろげられました。
軍隊の移動の途中、亀山市域を通過しています。その際、鈴鹿山道(鈴鹿関(関町新所)あたりと考えられます)を五百人の軍隊で塞ぐという人海戦術をとっています。このほか、戦いの場面では、馬に乗って戦ったことや、刀で敵を斬ったこと、弓や弩(大型の弓)で射たことなど、戦いのようすがまとめられています。
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日本書紀
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21.壬申の乱の武人復原
現代 奈良文化財研究所所蔵
天武天皇元年(672)に起こった壬申の乱のときに、戦った人の姿です。正面で合わせる形の胴丸の挂甲(鉄の小札(小さな板)を革でつなぎあわせています)、鉄の冑、籠手、臑当、脛巾、弓、胡籙、矢50本、弦巻、大刀を身につけています。
1350年前の人たちは、こうやって武具を身につけていたんだね!『日本書紀』に刀や弓を使ったって書かれていたけど、そのとおりだね。
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壬申の乱の武人復原(奈良文化財研究所所蔵)
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22.続日本紀 巻二十五・二十六
江戸時代 個人蔵
天平宝字8年(764)に、恵美押勝(藤原仲麻呂)が起こした反乱を藤原仲麻呂の乱といいます。恵美押勝は自分が組んだ淳仁天皇と、道鏡を大切にした前の天皇である孝謙太上天皇との対立を理由に、 孝謙太上天皇に対して反乱を起こしました。
戦いの最後には、琵琶湖に船で漕ぎだしたものの沈みそうになり、押勝の味方が矢で射られ、本人も沿岸まで逃げたものの石村石楯に刀で斬り殺される、という場面が描かれています。矢や刀を使った戦いであったことがうかがえます。
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続日本紀
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23.出入帳(北倉170)
奈良時代 正倉院宝物
天平宝字8年(764)に起こった藤原仲麻呂の乱のとき、正倉院に納められていた武具も倉から出され使われました。9月11日に反乱が起こったのですが、その当日の11日に、正倉院から武具を出すよう命じています。
大刀44口と黒作大刀40口、弓103枝、甲100領、矢を入れる靫と胡籙合わせて100具、これらが櫃(木箱)12合に入れて運び出されました。これらの武具のうち、甲100領は、挂甲90領と短甲10領という内訳です。挂甲は、壬申の乱のときの武人(出品番号21)が、鉄の小札(小さな板)を革でつなぎあわせた挂甲を身につけていますが、その100年後も同じ形の挂甲を使っていたことがわかります。短甲は、3コーナーで紹介します大垣内古墳出土のもの(出品番号25)と同じ形のものと考えられます。
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出入帳(正倉院宝物)
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正倉院は、奈良時代(1300年前)の宝物を今に伝える東大寺の倉のひとつなの。東大寺の大仏をつくったことで有名な聖武天皇が亡くなったとき、妻の光明皇后は、天皇が死後の世界でも安心して暮らせるように、大切にしていた品物を東大寺に納めたんですって。その中に武具があったのね。
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24.複製・伴大納言絵詞(歴博貸出ユニット)
亀山市歴史博物館所蔵
伴大納言絵詞は、平安時代(貞観8年(866))に起こった、当時の都、平安京の門のひとつ応天門が燃えるという事件を描いた絵巻です。
ここには、鎧を着て弓や刀を持った、警察の仕事をする役人たちが描かれています。馬に乗った役人は大鎧(馬に乗って矢を射る戦いに適しています。)を着ています。そして、武器である弓と矢、弓のための弦巻(弓の弦を巻いて納めておく道具)、太刀、長い柄の薙刀と槍を持っています。
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複製・伴大納言絵詞
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1150年前の武具の身につけ方がわかるわ。
戦いではないけれど、警察の仕事として、犯罪者の逮捕や自分の身を守るために鎧や刀、弓矢が必要だったのね。
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