亀山市歴史博物館
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交換転封以前の
備中松山と伊勢亀山

備中松山と伊勢亀山
の交換転封

交換転封後の
備中松山と伊勢亀山

もう1つの亀山
-1万石13ヵ村-

現在の亀山市と
高梁市との交流

4.もうひとつの亀山-1万石13ヵ村-

 6万石の石高を与えられていた石川家は、交換転封により5万石の石高の亀山領に入封にゅうほうすることになったため、その不足の1万石分を、前の領地であった松山領のうちから与えられた。これにより1万石に相当する13ヵ村が伊勢亀山領となった。これが“御残領”である。現地には現在も御残領だったことの痕跡があちらこちらに残されている。
 そこで、このコーナーでは、断片的にではあるが、垣間見えてきた当時の御残領のようすを紹介する。


(1)御残領ござんりょうの範囲と中津井陣屋なかついじんや

御残領13ヵ村の村名
江戸時代 現在の市町名 備考
郡名 村名
上房郡じょうぼうぐん 上村かみむら 高梁市たかはしし
中村なかむら
下村しもむら
垣村かきむら
長代村ながしろむら
川関村かわぜきむら
黒土村くろつちむら 黒土村くろつちむら
竹井村たけいむら
岩村いわむら
阿賀郡あがぐん 上平田村かみひらたむら 真庭市まにわし 幕末期に平田村が分村して2ヵ村になった。
下平田村しもひらたむら
上中津井村かみなかついむら 幕末期に中津井村が分村して2ヵ村になった。
下中津井村しもなかついむら

[4-1] 
[4-1]
 備中松山における1万石分13ヵ村の範囲を表した絵図。



4-1:備中国之内石川日向守領分 江戸時代
高梁市教育委員会所蔵資料

[4-2]
[4-2]
 中津井陣屋(現真庭市下中津井)を中心に、その周辺のようすが描かれている。



4-2:備中御残領中津井村之図 江戸時代(18世紀)
館蔵加藤家文書66-0-214

[4-3]
[4-3]
 中津井陣屋の側にある佛源寺に伝わる鯱鉾。中津井陣屋の門に上げられていた鯱鉾と伝わり、長い間、佛源寺の鐘楼堂に再利用されていた。

4-3:伝中津井陣屋門鯱鉾 江戸時代
佛源寺(真庭市下中津井)所蔵資料

[4-4]
[4-4]
 中津井陣屋に勤めた杉田藤左衛門の由緒書。これよると、藤左衛門は、安永4年(1775)時点で5回、中津井陣屋に勤めている。


4-4:杉田藤左衛門由緒書 安永4年(1775)
館蔵杉田家文書123

[4-5]
[4-5]
 中津井陣屋で書かれた日誌。中津井陣屋への届出など、現地で雇われた人が当番制で書いたもの。なお、表紙には「在番 杉田有年」と記されている。

4-5:公用記 明治4年(1871)
館蔵杉田家文書118

[4-6]
 明和9年(1772)の石灯籠(向かって左)には、「勢州亀山家中在番 鈴江四郎左衛門」、安永2年(1773)の石灯籠(向かって右)には、「勢州亀山家中陣屋在番 欽田」と陣屋勤めの石川家家臣の名前がみられる。

[4-6左] 
[4-6右]
4-6:毘沙門堂石灯籠 明和9年(1772)・安永2年(1773)
個人管理

[4-7]
[4-7]
 これにより、中津井陣屋に今田久兵衛という代官がいたことがわかる。「墳」としてあるので、一見お墓のようだが、今田久兵衛は亀山で亡くなっている。

4-7:慰霊塔「御代官今田久兵衛辰則墳」 江戸時代
上水田小松自治会管理

[4-8]
[4-8]
 石川家家臣である「杉本善兵衛」の名前がみられる位牌。



4-8:勢州亀山藩中杉本善兵衛による永代供養位牌
安政6年(1859) 佛源寺所蔵資料


(2)中津井村なかついむら

[4-9] 
[4-9]
 中津井陣屋のあった場所に移築されている領境界標石。もともとは、伊勢国亀山藩領であった中津井と他領との堺に建てられていたが、どこにあったかは現在では不明となっている。

4-9:亀山領境界標石 江戸時代
真庭市管理

[4-10]
 天明8年(1788)の金刀比羅神社宝殿の建替えに際し作成された棟札。
 大願主として「石川日向守」、代官として「平井副隆」の名がある。「石川日向守」は、当時亀山城主であった石川総博を指す。代官は中津井陣屋の責任者であり、石川家の家臣である。
 大工「柴倉久右衛門尉信吉」は、備中松山及び中津井村で活躍した大工である。

[金刀比羅神社]
[4-10]
4-10:金刀比羅神社棟札 天明8年(1788)
金刀比羅神社(真庭市下中津井)所蔵資料

[4-11]
4-11:高岡神社本殿
天明7年(1787)
高岡神社(真庭市下中津井)
[4-11]

桁行けたゆき3間、梁間はりま3間 一重いちじゅう入母屋造いりもやづくり
正面千鳥破風ちどりはふ付 唐破風造からはふづくり向拝ごはい1間 銅板葺

 天明年中火災により焼失した後、天明7年(1787)4月に再建された本殿。真庭市の有形文化財(建造物)に指定されている。
 高岡神社パンフレットによると「願主石川日向守」「大工柴倉久(ママ)衛門尉信吉」と記した棟札が残る。「石川日向守」は亀山城主石川総博。大工柴倉信吉は、金刀比羅神社宝殿と同じ。

[4-12] 
[4-12]
 銘茶販売促進のため、備中中津井の産物会所が作製した「銘茶価目録」の版木。
 ※写真は読みやすいように反転させています。


4-12:銘茶価目録版木 江戸時代(19世紀後期)
佛源寺(真庭市下中津井)所蔵資料


(3)長代村ながしろむら

[4-13]
 臍帯寺観音堂の宝暦14年(1764)に行われた屋根葺替えの棟札。
 表面には願主として、「板倉美濃守勝久」と「勢州亀山城主石川主殿頭総慶」とが並び記されている。葺替にあたって、当時の松山城主板倉勝久とともに、前城主である石川総慶ふさよし(当時亀山城主)に寄進が求められたのである。
 裏面には、二人の城主が願主となった経緯とともに、関わった両家の家臣が記されている。石川家家臣としては、「寺社奉行 松井久右衛門  山田源右衛門」「中津井御陣屋在番  西村直八郎」の名がある。

[臍帯寺]
[4-13]
4-13:臍帯寺棟札(宝暦) 宝暦14年(1764)
臍帯寺(高梁市有漢町)所蔵資料

[4-14]
4-14:臍帯寺棟札(享保)
享保12年(1727)
臍帯寺(高梁市有漢町)
所蔵資料
[4-14]
臍帯寺ほそおじ観音堂の享保12年(1727)に行われた屋根葺替えの棟札。
 表面には、「当城主石川主殿頭総慶」とともに、「寺社奉行 岡田長蔵 田島五左衛門」「代官 牛尾伊右衛門 山本杢太夫」「小役人 小川喜八 (虫損)」の名が記されている。
 また、「茅寄役人」「竹伐役人」(以上表面)、「茅縄人足触代官」(裏面)など、具体的な役割を示す内容とともに、各村々への割当が裏面に記されている。


[4-15]
[4-15]
臍帯寺ほそおじ歴代住職の事跡が書き記されている。
 「法印権大僧都宥雅」、享保12年(1727)の記載には、「臍帯寺棟札(享保)」と一致する役・人名が記されている。
 「臍帯寺棟札(享保)」で虫損により判読できなかった小役人は「吉田作左衛門」であるとわかる。
4-15:臍帯寺歴代住職事跡書(部分) 明治時代(19世紀後期)
臍帯寺(高梁市有漢町)所蔵資料


(4)上村かみむら中村なかむら下村しもむら

[4-16] ※2.89mb
[4-16]
 この絵図には、延享元年(1744)の所替によって向山が伊勢亀山藩領となったが、草山の入会だけは今までのままにしてほしいということが記されている。

4-16:備中国有漢下三ヶ村大絵図 江戸時代(18世紀前期)
高梁市教育委員会所蔵資料

[4-17] ※2.59mb
[4-17]
 伊勢亀山藩領の上村・中村・下村を表した絵図。上村だけ松山領との相給あいきゅうとなっている。



4-17:備中国之内石川日向守領絵地図 江戸時代
高梁市教育委員会所蔵資料

[4-18] ※2.49mb
[4-18]
 石川家が松山城主時代の山論裁判記録。有漢下村と竹庄貞村・竹井村が境界を争ったところ、下村の言い分が認められたもの。


4-18:裁許書 正徳5年(1715)
高梁市教育委員会所蔵資料


(5)竹井村たけいむら

[4-19]
[4-19]
 大月関平の祖父が、石川家の所替に伴い亀山へ移る時に、記念に植えた杉と伝わり、「亀山杉」と名付けられている。


4-19:亀山杉 (伝)江戸時代
大月家所蔵

[コラム②]
コラム②:大月関平の古文書
江戸時代 大月家所蔵
[コラム②]
大月関平おおつきせきへいは、石川家の家臣であり鹿島新当流の最高権位「唯授一人」を授与された人物である。この関平の祖父である大月兵三郎へいざぶろう義則よしのりは、黒土村(現吉備中央町)の出身で、八幡神社(別称今宮八幡神社)の宮司をしていたが、延享元年(1744)の石川家の所替に伴い亀山へ来た。この大月兵三郎義則の本家筋にあたるのが、現在の吉備中央町上竹にある大月家であり、亀山杉は、この大月家の敷地に植えられている。
 大月関平自身は亀山生まれであるが、この本家筋の大月家とも交流をもっていたようで、このことは、現在も上竹の大月家にのこされている、大月関平自筆の書状などからうかがえる。


(6)岩村いわむら

[4-20]
 岩村未次出生の難波治郎左衛門が願主となって建てた岩牟良いわむら神社石灯籠で、「勢州亀山 石川主殿頭」と刻まれている。なお宝暦14年(1764)は伊勢亀山の御残領時代である。

[岩牟良神社]
[4-20左] 
[4-20右] 
4-20:岩牟良神社石灯籠 宝暦14年(1764)
岩牟良神社所蔵


(7)黒土村くろつちむら

[4-21]
4-21:八幡神社(今宮八幡神社)本殿
安永9年(1780)
八幡神社(吉備中央町黒土)
[4-21]

桁行けたゆき3間、梁間はりま2間
一重いちじゅう入母屋造いりもやづくり向拝ごはい1間 銅板葺

 八幡神社(今宮八幡神社)本殿は、『賀陽町史』によれば、「安永九年十二月 石川日向守本願主…」の棟札があったとされ、安永9年(1780)の建築と考えられる。「石川日向守」は亀山城主石川総博。

[4-22]
4-22:黒土郷蔵
江戸時代(18世紀中~後期)
八幡神社(吉備中央町黒土)
[4-22]
 八幡神社(今宮八幡神社)参道入口脇にある郷蔵との伝承を持つ土蔵で、吉備中央町の文化財に指定されている。
 郷蔵は、江戸時代農村に設置された穀類を所蔵する蔵で、年貢米の一時的な保管とともに、凶作飢饉に備える目的を持ち、領主が設置することがあった。
 本郷蔵は、建築的特徴からは18世紀にさかのぼるものと考えられるが、石川家が備中松山城主であった時のものか、亀山転封てんぽう後のものであるかは不明である。

[4-23]
4-23:黒土郷蔵 調査野帳
平成29年7月20日調査
作成:亀山市歴史博物館
[4-23]

梁間はりま2間(6.3m)、桁行けたゆき3間(4.3m)
土蔵造 桟瓦葺さんがわらぶき

 4-22の郷蔵は、平面は仕切りがない1室で、出入口を妻側右手に取る。建築当初は内部が2層になっていたと考えられる。同じく妻側左手の上部に窓を設ける。四隅の柱と、1間おきに配置される梁を受ける柱に曲がりのある栗材が使用され、その間の柱は松材である。建築当初と考えられる柱・梁は手斧仕上げされ、右奥隅の柱から時計回りに番付が付されている。
 建築時期を明らかに示す資料はないが、技法的には18世紀にさかのぼるものと考えられ、御残領の村において、亀山城主石川家により設置されたとの伝承もうなずける。