亀山市歴史博物館
TOP

交換転封以前の
備中松山と伊勢亀山

備中松山と伊勢亀山
の交換転封

交換転封後の
備中松山と伊勢亀山

もう1つの亀山
-1万石13ヵ村-

現在の亀山市と
高梁市との交流

3.交換転封てんぽう後の備中松山と伊勢亀山

 のこされた古文書をみると、亀山城主に与えられた役が見えてくる。そこで、朝鮮通信使の饗応や女手形の発行など、転封によって旧亀山城主から新亀山城主へ引き継がれた役を紹介する。
 また、転封によって人や物が移動したことや、その他、板倉家や石川家の菩提寺も転封先に付いてまわったように、転封によって変化した「まち」のようすにも注目する。


(1)亀山城主に引き継がれた役

守山宿における亀山城主の朝鮮通信使馳走役

 朝鮮通信使は来聘使らいへいしともよばれ、徳川将軍の代替わりに合わせて、朝鮮国より国書を携えて来日する。対馬から瀬戸内海を通り、兵庫、大坂に出て淀川をさかのぼり、京都からは陸路で琵琶湖湖岸の朝鮮人街道と中山道を通って名古屋へ出、そこからは東海道を通り江戸へ向かう。その途中の守山宿では、亀山城主が馳走役ちそうやくを負った。
 しかし、元々亀山城主の役だったわけではなく、石川家では、寛永13年(1636)に忠総が膳所ぜぜ城主の時に初めて守山宿での朝鮮通信使の馳走役を任された。
 その後、慶安4年(1651)に石川家が所替で亀山城主になって以降、歴代亀山城主は守山宿での朝鮮通信使馳走役をすることになった。
 つまり、守山宿での朝鮮通信使馳走役は、石川家の役から、亀山城主の役として引き継がれることになったのである。

[3-1]
[3-1]
 朝鮮通信使が守山宿で宿泊する守山寺と馳走役の亀山城主が泊まる本像寺までの道のりを記した絵図。表道だけでなく裏道も記されている。

3-1:朝鮮通信使馳走守山宿絵図 江戸時代
館蔵加藤家文書66-0-19

[3-2]
[3-2]
 朝鮮通信使が宿泊する守山寺の絵図。正使・副使・従事官の部屋割りの書き込みがある。また、仮台所や浴室など、新たに普請した部分が朱筆で書き込まれている。
3-2:守山宿朝鮮通信使宿所守山寺絵図 江戸時代
館蔵加藤家文書66-8-210

[3-3]
[3-3]
 板倉家に伝わった朝鮮通信使関係資料。天和2年(1682)の板倉重常が亀山城主時代のもの。但し、内容は守山ではなく、江戸城での事柄である。

3-3:八月廿七日朝鮮人御礼次第 天和2年(1682)
高梁市歴史美術館所蔵板倉文書

[3-4]
[3-4]
 3-3「八月廿七日朝鮮人御礼次第」と同じく、天和2年(1682)の板倉重常が亀山城主時代の朝鮮通信使関係資料。

3-4:八月廿七日朝鮮人御馳走之役人 天和2年(1682)
高梁市歴史美術館所蔵板倉文書

[3-5]
[3-5]
 享保4年(1719)の守山での朝鮮通信使馳走役の様子を日付ごとに記したもの。この役に11日間を費やしている。なお、この時の亀山城主は板倉重治である。
3-5:朝鮮通信使道中日程見人報告にともなう板倉家亀山
守山往復日程につき書付 享保4年(1719)
館蔵加藤家文書62-16-572

享保4年(1719)の朝鮮通信使饗応
日付 時刻 使節側の動き 板倉家側の動き
9月2日 申上刻 室津へ着船。
9月4日 室津へ着いたことを見届けた見届人が大坂より帰る。これにより追々、先遣隊が亀山を発足。
酉下刻 大坂へ三使が着船
9月5日 大坂の旅館の見届人が帰ってくる。
未下刻 亀山を発駕。坂ノ下泊まり。
9月6日 水口で休泊。
9月7日 石部で小休。
午上刻 守山に到着。
御案内のため、京都御所手代他へ急ぎ書状を送る。
9月10日 辰下刻 三使が大坂の旅館を発足。
9月11日 戌上刻 京都に到着。
9月12日 京都を発足。
大津にて昼休み。申上刻に着く予定のところ、正使が不快にて止宿となる。
9月13日 申上刻 守山の旅館に到着。
9月14日 卯中刻 守山の旅館を発足。
午下刻 守山を発駕。
水口に休泊。
9月15日 坂下で小休。
未下刻 亀山に到着。

[3-6]
[3-6]
 享保4年(1719)の守山での朝鮮通信使馳走役の様子を日付事に記したもの。


3-6:朝鮮通信使守山馳走亀山城主守山寺・本像寺
見分につき覚 享保4年(1719)

館蔵加藤家文書62-16-582

[3-7]
[3-7]
 延享5年(1748)、石川総慶が亀山城主の時に守山宿で担った朝鮮通信使馳走について、家臣の役割分担を記したもの。


3-7:朝鮮人来聘依江州守山江可参人数覚 延享5年(1748)
館蔵今井家文書2-55

[3-8]
[3-8]
 守山での朝鮮通信使馳走についての掟や家臣の役割分担などを記したもの。



3-8:朝鮮通信使守山駅馳走の掟などにつき書付 江戸時代
館蔵加藤家文書62-20-646

[3-9]
[3-9]
 板倉重治が亀山城主の頃の女手形に関する資料。亀山城主の役として伊勢国の女手形の発行があった。

3-9:女手形判鑑を御用番久世大和守様へ差し出し
置くにつき書状 宝暦5年(1755)
高梁市歴史美術館所蔵板倉文書

[3-10]
3-10:女手形の儀につき書上
江戸時代(18世紀前半)
高梁市歴史美術館所蔵板倉文書
[3-10]
 長島城主増山河内守の家来より手紙が届き、増山河内守が、伊勢国の女手形の御用を仰せ蒙られたと伝えてきたことに対し、返書に、手判は近江守(重治)の在所にあることや、手判役人も在所にいると返答している。このことからも、亀山城主である重治が女手形の発行をしていたことがわかる資料である。

[3-11]
[3-11]
 この日記の最初の一つ書きに、延享元年(1744)6月10日に、勢州より出る女切手御手判御用掛り仰せ付けられとあることから、所替により亀山城主になった石川家が、新しい女手形の発給者になったことがわかる。
3-11:延享元年六月十日より同十六日迄の日記 延享元年(1744)
館蔵加藤家文書50-0-4

[3-12] 
[3-12]
 これは、桑名城主松平定敬の「召仕女」とその下女が江戸に引っ越すので、今切の関所が通行できるように石川主殿頭へ手形の発行を願う書状である。

3-12:召仕女共江戸引越しにつき関所手形依頼の旨書状
延享元年(1744) 館蔵天野家文書36-32

[3-13]
[3-13]
 享保4年(1719)に亀山城主の板倉重治が不動院に宛てた寺領寄進状。先規の例により寄付とあることから、歴代の亀山城主がしてきたことを重治も継承したことがわかる。

3-13:板倉重治寺領寄進状 享保4年(1719)
不動院所蔵亀山市歴史博物館館寄託資料

[3-14]
[3-14]
 延享元年(1744)に亀山城主の石川総慶から不動院に宛てた寺領寄進状。先規の例に任せ寄付とあることから、石川総慶も歴代の亀山城主に従い、寺領の寄進をおこなったことがわかる。

3-14:板倉重治寺領寄進状 延享元年(1744)
不動院所蔵亀山市歴史博物館館寄託資料

[コラム①]
[コラム①]
 安藤家が松山城主だった時代の元禄16年(1703)に発行された銀札に、石川総慶が松山城主の頃に「享保十五年改」の印を押して発行したものがのこされている。このことから、総慶が銀札の発行をそのまま継承していたことがうかがえる。
コラム①:備中松山銀札 江戸時代(18世紀前期)
高梁市歴史美術館所蔵資料


(2)人や物の移動

[3-15]
[3-15]
 板倉家が亀山城主時代に、家臣と結婚した町や村の女性が、亀山から松山へ夫とともに引っ越していることがわかる資料。


3-15:御預ケ之同心宗旨改帳 延享元年(1744)
高梁市歴史美術館所蔵板倉文書

[3-16]
[3-16]
 板倉重治がかいた布袋図。高梁市の八重籬神社に旧蔵されていたことから、延享元年(1744)に亀山から松山へ持ち運ばれたかもしれない。


3-16:板倉重治筆布袋図 江戸時代(18世紀前期)
高梁市歴史美術館所蔵資料

[3-17]
[3-17]
 亀山城主を務めた石川憲之が所用した具足。このような具足は、所替のたびに所替先の城へ持ち運ばれた可能性がある。


3-17:黒塗紺糸威仏胴具足(亀山市指定文化財)
江戸時代(17世紀) 館蔵資料

[3-18]
[3-18]
 板倉勝重の召領として伝えられた具足。所替のたびに運んでいたと思われ、おそらく延享元年(1744)の所替の際にも、亀山から松山にも運ばれたと考えられる。しかし、寛政5年(1793)に八重籬神社が創建されて以降は、八重籬神社に納められた。
3-18:日の丸金箔押紺糸威二枚胴具足(岡山県指定重要文化財)
桃山時代 高梁市歴史美術館所蔵資料

[3-19]
[3-19]
 箱の蓋裏に「元文四年」の墨書がある。元文四年(1739)は板倉勝澄が亀山城主の時代であり、この馬面ばめんも亀山から松山へ持ち運ばれたものと考えられる。
3-19:馬面 元文4年(1739)
高梁市歴史美術館所蔵


(3)変化した「まち」の姿

マチの変化の起点 交換転封こうかんてんぽう

 交換転封によって、板倉家に代わって石川家が伊勢亀山城の主となり、その居館として二之丸御殿が引き継がれた。石川家に従った石川家家臣や石川家に縁のあるいくつかの寺院にも、それぞれ屋敷や寺地が割り当てられた。石川家の家老である加藤家には、西之丸にあった板倉家家老の板倉杢右衛門の屋敷が割り当てられた。また、石川家の菩提寺である本久寺・本宗寺・梅巌寺・宗英寺のうち、本久寺には南崎にあった板倉家の菩提寺である安正寺(絵図では「安昌寺」)の寺地が、本宗寺・梅巌寺・宗英寺には、それぞれ板倉時代に明地・明家であった武家屋敷が割り当てられた。
 このように、転封に伴う屋敷等の割り当ては、家臣においては役職や家禄、寺院においては由緒に応じた、板倉・石川両家における対応関係が意識されるとともに、城下における位置関係は備中松山における曲輪との位置関係が踏襲されている。
 このことは、板倉家による伊勢亀山における家臣等の配置関係と、石川家による備中松山における配置関係の、双方の継承が志向されたのであり、城主はマチに変化を起こすことを望んでいなかったのであろう。
 しかし、多くの家臣や寺院の交代が、マチに変化を与えなかったとは考えられない。石川家による治世の浸透、移動した家臣及びその家族、さらには石川家家臣に仕える中間や奉公人の伊勢亀山への順応、そして板倉時代に明地明家であった武家屋敷のいくつかが再び屋敷として使われることとなったことなどを契機として、"マチの変化"は交換転封を起点として動き出すのである。

[3-20] ※2.4mb
3-20:二之丸御殿絵図
江戸時代(19世紀後期)
館蔵加藤家文書66-0-250
[3-20]
 亀山城二之丸の藩主居館の幕末期の絵図である。現在の亀山西小学校にあたる。
 御殿は3棟が南北に並ぶが、最も南(下)の建物が式台、玄関、書院などが並ぶ表向の空間であり、中央の建物が役所にあたる。そして最も北(上)に、他の建物と塀などにより隔絶されてある建物が藩主の生活空間である。
 一方、図左側には藩主のための空間が、別棟でありながら廊下などによってつなげられている。最も南(下)が公式行事や対面等が行われる大書院、中ほどが通常の執務室となる小書院、その上が居間である。さらに奥向おくむきとつながった部分が日常の起居に用いられた。奥向の北(上)が二之丸帯曲輪である。
 亀山城二之丸御殿は、備中松山城においては根小屋にあたる。建物構成などその構造は共通しているが、二之丸御殿は規模が大きく、また藩主・家臣等の動線が合理的に整理されている。

[3-21]
3-21:加藤家屋敷絵図
江戸時代(19世紀後期)
館蔵加藤家文書66-0-27
[3-21]
 亀山城下における加藤家屋敷の絵図である。屋敷の形状から西丸の現在地にあたる。
 加藤家に残る亀山城下における加藤家屋敷の絵図としては最も古い状況が描かれていると考えられ、延享元年の交換転封により、板倉家中の城代家老板倉杢右衛門から引き継いだものと思われる。
 屋敷には南側の街路に面して設けられた長屋門から入り、正面の式台玄関から左手に続く座敷が表向おもてむきである。一方、正面右手土間から奥に向けた諸室が居住空間となる奥向の諸室である。備中松山における屋敷と比較すると建造物の規模は大きい。

[3-22]
[3-22]
 場所ごとに、屋敷の広さと板倉家家臣の名前が記されている。付箋には石川家家臣の名前が記されている。加藤光忠は亀山城請取御用をしており、石川家中の亀山城下における屋敷割を行ったと考えられる。
3-22:板倉周防守様御内勢州亀山家中屋敷帳 江戸時代(18世紀中期)
館蔵加藤家文書73-0-125