3.交換転封後の備中松山と伊勢亀山
のこされた古文書をみると、亀山城主に与えられた役が見えてくる。そこで、朝鮮通信使の饗応や女手形の発行など、転封によって旧亀山城主から新亀山城主へ引き継がれた役を紹介する。 また、転封によって人や物が移動したことや、その他、板倉家や石川家の菩提寺も転封先に付いてまわったように、転封によって変化した「まち」のようすにも注目する。 |
(1)亀山城主に引き継がれた役 |
(2)人や物の移動 |
板倉家が亀山城主時代に、家臣と結婚した町や村の女性が、亀山から松山へ夫とともに引っ越していることがわかる資料。 3-15:御預ケ之同心宗旨改帳 延享元年(1744)
高梁市歴史美術館所蔵板倉文書
板倉重治がかいた布袋図。高梁市の八重籬神社に旧蔵されていたことから、延享元年(1744)に亀山から松山へ持ち運ばれたかもしれない。 3-16:板倉重治筆布袋図 江戸時代(18世紀前期)
高梁市歴史美術館所蔵資料
亀山城主を務めた石川憲之が所用した具足。このような具足は、所替のたびに所替先の城へ持ち運ばれた可能性がある。 3-17:黒塗紺糸威仏胴具足(亀山市指定文化財)
江戸時代(17世紀) 館蔵資料
板倉勝重の召領として伝えられた具足。所替のたびに運んでいたと思われ、おそらく延享元年(1744)の所替の際にも、亀山から松山にも運ばれたと考えられる。しかし、寛政5年(1793)に八重籬神社が創建されて以降は、八重籬神社に納められた。 3-18:日の丸金箔押紺糸威二枚胴具足(岡山県指定重要文化財)
桃山時代 高梁市歴史美術館所蔵資料
箱の蓋裏に「元文四年」の墨書がある。元文四年(1739)は板倉勝澄が亀山城主の時代であり、この馬面も亀山から松山へ持ち運ばれたものと考えられる。 3-19:馬面 元文4年(1739)
高梁市歴史美術館所蔵 |
(3)変化した「まち」の姿 |
マチの変化の起点 交換転封 このように、転封に伴う屋敷等の割り当ては、家臣においては役職や家禄、寺院においては由緒に応じた、板倉・石川両家における対応関係が意識されるとともに、城下における位置関係は備中松山における曲輪との位置関係が踏襲されている。 このことは、板倉家による伊勢亀山における家臣等の配置関係と、石川家による備中松山における配置関係の、双方の継承が志向されたのであり、城主はマチに変化を起こすことを望んでいなかったのであろう。 しかし、多くの家臣や寺院の交代が、マチに変化を与えなかったとは考えられない。石川家による治世の浸透、移動した家臣及びその家族、さらには石川家家臣に仕える中間や奉公人の伊勢亀山への順応、そして板倉時代に明地明家であった武家屋敷のいくつかが再び屋敷として使われることとなったことなどを契機として、"マチの変化"は交換転封を起点として動き出すのである。
亀山城二之丸の藩主居館の幕末期の絵図である。現在の亀山西小学校にあたる。 御殿は3棟が南北に並ぶが、最も南(下)の建物が式台、玄関、書院などが並ぶ表向の空間であり、中央の建物が役所にあたる。そして最も北(上)に、他の建物と塀などにより隔絶されてある建物が藩主の生活空間である。 一方、図左側には藩主のための空間が、別棟でありながら廊下などによってつなげられている。最も南(下)が公式行事や対面等が行われる大書院、中ほどが通常の執務室となる小書院、その上が居間である。さらに奥向とつながった部分が日常の起居に用いられた。奥向の北(上)が二之丸帯曲輪である。 亀山城二之丸御殿は、備中松山城においては根小屋にあたる。建物構成などその構造は共通しているが、二之丸御殿は規模が大きく、また藩主・家臣等の動線が合理的に整理されている。
亀山城下における加藤家屋敷の絵図である。屋敷の形状から西丸の現在地にあたる。 加藤家に残る亀山城下における加藤家屋敷の絵図としては最も古い状況が描かれていると考えられ、延享元年の交換転封により、板倉家中の城代家老板倉杢右衛門から引き継いだものと思われる。 屋敷には南側の街路に面して設けられた長屋門から入り、正面の式台玄関から左手に続く座敷が表向である。一方、正面右手土間から奥に向けた諸室が居住空間となる奥向の諸室である。備中松山における屋敷と比較すると建造物の規模は大きい。
場所ごとに、屋敷の広さと板倉家家臣の名前が記されている。付箋には石川家家臣の名前が記されている。加藤光忠は亀山城請取御用をしており、石川家中の亀山城下における屋敷割を行ったと考えられる。 3-22:板倉周防守様御内勢州亀山家中屋敷帳 江戸時代(18世紀中期) 館蔵加藤家文書73-0-125 |