A古遺跡[亀山市関町古]
奈良時代の瓦が採集されていること、また地名が「フルウマヤ」が転訛して「古」となったのではないかとの見解から、鈴鹿駅家跡ではないかと考えられている遺跡。駅家は駅路に整備されたことから、東海道を介して鈴鹿関ともつながっていた施設といえます。
32 重圏文軒丸瓦・重廓文軒平瓦
奈良時代(8世紀中頃) 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
古遺跡地内にて採集された二重圏文の軒丸瓦と重廓文軒平瓦。軒丸瓦を鈴鹿関跡第1次調査地出土のもの(65)と比較すると、各部の数値が非常に近似していることが注目されます。
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33 延喜式 巻第二十八
江戸時代後期 亀山市歴史博物館(明倫館文庫)
延喜式兵部省諸国駅伝馬条によると、鈴鹿駅家には20疋の駅馬がいました。そのほか伊勢国内には、河曲・朝明・榎撫・市村・飯高・度会の駅家が存在しました。同じく鈴鹿郡には伝馬5疋もいました。
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34 日本後紀 巻第十三
明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
備後・安芸・周防・長門の4か国に対し、駅家の館舎を修理するよう命じた勅(『日本後紀』大同元年(806)5月丁丑(14)条)。勅の中で、駅家の外観を「瓦葺粉壁」と表しています。これは、山陽道の駅家に対する表現ですが、鈴鹿郡の駅家も同様に瓦葺きで白壁の建物であった可能性も推測されます。
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35 令義解 巻七
寛政12年(1800) 亀山市歴史博物館(明倫館文庫)
公式令諸国給鈴条によると、三関国には各国に4口の駅鈴が与えられました。大宰府の20口は飛びぬけて多いですが、それに次ぐ量が与えられ、大国・上国の3口よりも多い量です。情報伝達に必要な駅馬利用の機会が多いと考えられていたためではないでしょうか。
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36 複製 駅鈴
姫路文学館(原資料[重要文化財]:中世、個人)
駅馬の利用には、駅鈴を必要としました。駅鈴は、天皇の裁可により主鈴が出納したものを携行しました。鈴にある剋の数によって利用できる駅馬の数が定められていました(公式令給駅伝馬条)。東海道を通り、鈴鹿駅家を利用した官人たちは、駅鈴を持参していました。
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37 通常はがき(20円)
昭和時代 個人
料額印面に駅鈴のデザインを印刷したはがき。昭和51年(1976)1月25日から郵便料金が20円となったことにあわせて、デザインも変更されました。
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駅鈴(松阪市京町・松阪駅前)
寛政7年(1795)、浜田領主(島根県)の松平康定は、本居宣長から『源氏物語』の講義を聴きました。その際、康定から宣長へ駅鈴が贈られました。松阪駅前の駅鈴は、この宣長の駅鈴を模したものです。
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38 萬葉集 巻第十四
慶長元和年間(1596-1624) 国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544296/18)
鈴が音の 早馬駅家の つつみ井の
水をたまへな 妹が直手よ(14-3439)
駅鈴の響く早馬駅家のつつみ井から、
水をいただきたいものだ、あなたの手から。
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都追美井(亀山市関町古 )
『万葉集』には、駅家を詠んだ歌(No.38)があります。都追美井は、この歌の「つつみ井」から名をとったといわれる井戸で、延喜式内社の大井神社の御神体とされています。なお、大井神社は、現在は関神社(亀山市関町木崎)に合祀されています。
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