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凡例  1.亀山市内の国史跡  2.道を塞ぐ―内乱の時代―  3.鈴鹿関と制度―奈良時代の政策― 
4.鈴鹿郡の古代  5.鈴鹿関跡  協力者・参考文献・出品一覧

第4章 鈴鹿郡の古代

 古代の地方行政区分、国・郡・郷の視点から、鈴鹿関の成立前から停廃期にあたる古代の鈴鹿郡の姿を考えてみます。鈴鹿郡は、伊勢国府の所在地であり、まさに伊勢国の中心地でした。鈴鹿郡が伊勢国の中心であったことは、伊勢国計会帳(21)からもうかがえます。計会帳には、「道前(みちのくち)」「道後(みちのしり)」という国内を二分する行政区画表現が用いられています。この二分する地点を考えてみると、国府所在の鈴鹿郡となると思われます。鈴鹿関は、伊勢国の中心たる鈴鹿郡の西部に位置したことになります。
 鈴鹿関は律令に基づいて整備が行われ、伊勢国司がその管理にあたりました。しかし、国を支える郡・郷なくしては、成立しえないでしょう。そこで本章は、古代の鈴鹿郡のようすを見ることから、鈴鹿関の実像を考えようとするものです。
 鈴鹿郡の実像は、他の地域と大きく異なるものではありません。地方行政を担う公的機関である伊勢国府、鈴鹿郡衙(ぐんが)郡家(ぐうけ))があり、官道である東海道が通り、沿道には鈴鹿駅家(うまや)が設けられていました。こうした公的施設の周囲には、官人や一般の人々が暮らしていました。公的機関があり、まわりで人々が暮らす、これは地域の変わらぬ姿でしょう。鈴鹿郡の特殊性は、そこに鈴鹿関が加わったことにあるのではないでしょうか。


古代鈴鹿郡内「郷」所在推定地
古代鈴鹿郡内「郷」所在推定地

(1)国 −伊勢国−

 鈴鹿郡内には、律令国家の命によって整備の進められた公的施設がいくつかあります。その筆頭は伊勢国府でしょう。国府に出仕した国司が管理した場所のひとつが、鈴鹿関でした。
 ほかには、官道である東海道に整備された駅家(うまや)のひとつ、鈴鹿駅家もあります。鈴鹿関は、固関を実施したことを考えると、東海道が関の中を通るように整備されたであろうと考えられます。駅家は、道沿いに設けられる施設ですから、鈴鹿関と鈴鹿駅家は東海道を介してつながっていたことになるでしょう。鈴鹿関近辺では確認できていませんが、郡内でも、東海道の遺構が確認されています。鈴鹿関の全体像を検討していくうえで、東海道、鈴鹿駅家は欠くことのできない存在です。
 また、鈴鹿関の存在が明確となっている8世紀にあった瓦葺きの建物は、官衙(かんが)や寺院に限られています。そのため、鈴鹿関の整備にあたり、瓦窯(かわらがま)も造られたと考えられます。このように郡内には、地方行政支配に必要な公的施設とともに、瓦窯や瓦工房なども設けられていました。

@長者屋敷遺跡[鈴鹿市広瀬町・亀山市能褒野(のぼの)町など]

 伊勢国の役所である伊勢国府跡。現在、伊勢国府の所在地は2か所考えられています。ひとつが長者屋敷遺跡、もうひとつが鈴鹿川をはさんで南に位置する鈴鹿市国府町あたりです。2か所間の移転については、いくつかの説が検討されていますが、長者屋敷遺跡は、奈良時代中頃の国府跡であるとみられています。
 伊勢国の国司は、分担して鈴鹿関の守固(しゅこ)にあたるとの軍防令(ぐんぼうりょう)の規定があります。そのため、鈴鹿関には国府から国司ひとりと役人等が派遣されていたと考えられます。


29 倭名類聚鈔 巻第五
   元和3年(1617) 亀山市歴史博物館(明倫館文庫)
 伊勢国には13の郡がありました。そのうち、鈴鹿郡については、「須々加(すずか)」という読みとともに「国府」とあり、伊勢国の国府が鈴鹿郡に所在したことを記しています。
倭名類聚鈔 巻第五
倭名類聚鈔 巻第五


30 重圏文軒丸瓦・重廓文軒平瓦
   奈良時代 鈴鹿市考古博物館
 軒丸瓦は二重圏文(にじゅうけんもん)、軒平瓦は重廓文(じゅうかくもん)。8世紀第U四半期と第V四半期のものです。伊勢国府は、その中心である政庁と、政庁の北にあり碁盤の目状の区画に建物群がならぶ国府関連の官衙施設である北方官衙で構成されていました。


31 文字瓦
   奈良時代 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 長者屋敷遺跡からは、瓦工人の印と考えられる文字が押印された丸瓦・平瓦が出土しています。亀山市域出土資料では、「人」「守」「上」と押印された文字瓦が大多数を占めます。
 一方で、鈴鹿関跡では文字瓦が確認されていないことから、文字を押印する瓦工人グループは、鈴鹿関跡の瓦生産体制に関与していなかったと考えられます。
文字瓦
文字瓦

A古厩遺跡[亀山市関町古厩

 奈良時代の瓦が採集されていること、また地名が「フルウマヤ」が転訛(てんか)して「厩(ふるまや)」となったのではないかとの見解から、鈴鹿駅家(すずかのうまや)跡ではないかと考えられている遺跡。駅家は駅路に整備されたことから、東海道を介して鈴鹿関ともつながっていた施設といえます。


32 重圏文軒丸瓦・重廓文軒平瓦
   奈良時代(8世紀中頃) 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 古厩遺跡地内にて採集された二重圏文の軒丸瓦と重廓文軒平瓦。軒丸瓦を鈴鹿関跡第1次調査地出土のもの(65)と比較すると、各部の数値が非常に近似していることが注目されます。
重圏文軒丸瓦・重廓文軒平瓦


33 延喜式 巻第二十八
   江戸時代後期 亀山市歴史博物館(明倫館文庫)
 延喜式(えんぎしき)兵部省(ひょうぶしょう)諸国駅伝馬(しょこくえきてんま)条によると、鈴鹿駅家(すずかのうまや)には20(ひき)の駅馬がいました。そのほか伊勢国内には、河曲(かわわ)・朝明・榎撫(えなつ)・市村・飯高・度会の駅家が存在しました。同じく鈴鹿郡には伝馬5疋もいました。
延喜式 巻第二十八


34 日本後紀 巻第十三
   明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
 備後・安芸・周防・長門の4か国に対し、駅家(うまや)の館舎を修理するよう命じた勅(『日本後紀』大同元年(806)5月丁丑(14)条)。勅の中で、駅家の外観を「瓦葺(かわらぶき)粉壁(ふんぺき)」と表しています。これは、山陽道の駅家に対する表現ですが、鈴鹿郡の駅家も同様に瓦葺きで白壁の建物であった可能性も推測されます。
日本後紀 巻第十三


35 令義解 巻七
   寛政12年(1800) 亀山市歴史博物館(明倫館文庫)
 公式令(くしきりょう)諸国給鈴条によると、三関国には各国に4口の駅鈴(えきれい)が与えられました。大宰府の20口は飛びぬけて多いですが、それに次ぐ量が与えられ、大国・上国の3口よりも多い量です。情報伝達に必要な駅馬利用の機会が多いと考えられていたためではないでしょうか。
令義解 巻七


36 複製 駅鈴
   姫路文学館(原資料[重要文化財]:中世、個人)
 駅馬の利用には、駅鈴(えきれい)を必要としました。駅鈴は、天皇の裁可により主鈴(しゅれい)が出納したものを携行しました。鈴にある(きざみ)の数によって利用できる駅馬の数が定められていました(公式令給駅伝馬条)。東海道を通り、鈴鹿駅家(すずかのうまや)を利用した官人たちは、駅鈴を持参していました。


37 通常はがき(20円)
   昭和時代 個人
 料額印面に駅鈴のデザインを印刷したはがき。昭和51年(1976)1月25日から郵便料金が20円となったことにあわせて、デザインも変更されました。
通常はがき(20円)


駅鈴(松阪市京町・松阪駅前)
 寛政7年(1795)、浜田領主(島根県)の松平康定は、本居宣長から『源氏物語』の講義を聴きました。その際、康定から宣長へ駅鈴が贈られました。松阪駅前の駅鈴は、この宣長の駅鈴を模したものです。
駅鈴(松阪市京町・松阪駅前)


38 萬葉集 巻第十四
   慶長元和年間(1596-1624)
   国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544296/18)
  鈴が音の 早馬(はゆま)駅家(うまや)の つつみ井の
       水をたまへな (いも)直手(ただて)よ(14-3439)
  駅鈴の響く早馬駅家のつつみ井から、
    水をいただきたいものだ、あなたの手から。
萬葉集 巻第十四


都追美井(亀山市関町古厩
 『万葉集』には、駅家を詠んだ歌(No.38)があります。都追美井(つつみい)は、この歌の「つつみ井」から名をとったといわれる井戸で、延喜式内社の大井神社の御神体とされています。なお、大井神社は、現在は関神社(亀山市関町木崎)に合祀されています。
都追美井(亀山市関町古厩)

B切山瓦窯跡[亀山市関町萩原]

 3基以上の瓦窯(かわらがま)跡が確認されました。発掘調査では、重圏文軒丸瓦(じゅうけんもんのきまるがわら)重廓文軒平瓦(じゅうかくもんのきひらがわら)、丸瓦、平瓦が出土しました。この窯の瓦供給先は、地理的に近く、同時代の瓦が出土や採集されている鈴鹿関、鈴鹿駅家(すずかのうまや)などが指摘されています。ただし、現在のところ、鈴鹿関跡出土軒丸瓦と比べると、瓦当面(がとうめん)の製作に同じ笵型(はんがた)を用いる同笵関係は確認できていません。


39 重圏文軒丸瓦・重廓文軒平瓦
   奈良時代(8世紀中頃) 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 採集された軒瓦。軒丸瓦は二重圏文(にじゅうけんもん)とみられます。軒平瓦は重廓文(じゅうかくもん)です。
重圏文軒丸瓦・重廓文軒平瓦


40 日本書紀 巻第二十一
   明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
 瓦造りの技術は、百済(くだら)国の瓦博士によってもたらされました(『日本書紀』崇峻天皇元年(588)是歳条)。崇峻(すしゅん)天皇元年に渡来した瓦博士4名は、ともに渡来した寺工、露盤博士らと飛鳥寺の造営に従事しました。
日本書紀 巻第二十一

C平田遺跡[鈴鹿市平田本町]

 縄文時代から中世まで継続して利用された遺跡。方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)、古墳、集落跡、道路跡、中世の建物跡などが確認されています。特に、2条の側溝が検出されたことから、側溝の間に古代の道路、官道(かんどう)敷設(ふせつ)が考えられることは注目されます。


41 平田遺跡 道路遺構
   奈良時代 鈴鹿市考古博物館
 約130mにわたって平行する2条の溝が確認されました(垂直写真の白点線)。溝は道路側溝とみられ、路面幅は9.6−9.9m(側溝芯々間)です。道路遺構は、河曲郡衙(かわわぐんが)・伊勢国分寺と推定伊勢国府(鈴鹿市国府町)との間に位置し、また遺構の年代が8世紀代とみられることから、東海道跡ではないかと考えられています。


(2)郡 −鈴鹿郡−

 伊勢国には、桑名・員弁・朝明・三重・河曲(かわわ)・鈴鹿・奄芸(あんき)安濃(あの)・壱志・飯高・多気(たけ)・飯野・度会の13郡がありました。このうち、鈴鹿関は、鈴鹿郡に所在しました。各郡には郡内政治の中心を担う郡衙(ぐんが)があるものの、現在、考古学的に言及しうるものは、朝明郡衙(四日市市・久留倍(くるべ)官衙遺跡)と河曲郡衙(鈴鹿市・狐塚遺跡)のみで、鈴鹿郡衙の地はいまだ不明です。
 また、律令国家は交通路の整備を進めました。これらの官道には、東海道など駅制で使用する駅家(うまや)の設けられた駅路、伝制で使用する伝路、その他の官道があります。郡内には、長期間にわたって利用されてきたとみられる道の痕跡が確認できます。これは、郡や郷によって整備された道ではないでしょうか。残された道の痕跡を見ることで、郡内の交通路を探ってみます。


42 倭名類聚鈔 巻第五
   元和3年(1617) 亀山市歴史博物館(明倫館文庫)
 伊勢国には、桑名・員弁・朝明・三重・河曲・鈴鹿・奄芸・安濃・壱志・飯高・多気・飯野・度会の13の郡がありました。
倭名類聚鈔 巻第五
倭名類聚鈔 巻第五

D狐塚遺跡[鈴鹿市国分町]

 伊勢国の13郡のうち、河曲(かわわ)郡の郡役所である河曲郡衙跡。政庁・正倉院とみられる遺構が確認されています。11棟からなる正倉院や正方位をとる政庁など、建築技術の高さがみうけられ、隣接する国分寺建立の強力な支援者となった有力豪族の存在がうかがえる遺跡です


43 刻書土器
   飛鳥時代〜奈良時代 鈴鹿市考古博物館
 文字が刻まれた須恵器。文字の意味は判然としませんが、郡司や郡衙関係者の名前、郡役所名などではないかと推測されます。

Eその他の道路痕跡[亀山市亀田町・羽若町(はわかちょう)

 現在の市道亀田小川線と市道亀田川合線の一部には、南東から北西へとつづく直線道路があります。この直線道路は、明治25年(1892)の測量以後、継続して確認できます。
 また、直線道路の南に位置する飛鳥時代から室町時代にかけての集落遺跡である糀屋垣内(こうじやがいと)遺跡(羽若町)には、数回にわたって同じ場所に設けられた東西方向溝があります。この溝と直交する南北方向溝は、このあたりに想定される方形区画にも一致しています。また、この南北方向溝は、前述の直線道路とも方位が一致しています。そのため、現在市道となっている直線道路は、中世には存在し、さらには古代からの敷設を想定することもできると考えています。


44 大日本帝国陸地測量部 明治25年測図(同27年製版) 亀山
   明治27年(1894) 亀山市歴史博物館
 羽若(亀山町大字羽若)の集落を通る南北道路に直交する、南東から北西方向の直線道路が記録されています。
大日本帝国陸地測量部 明治25年測図(同27年製版) 亀山
大日本帝国陸地測量部 明治25年測図(同27年製版) 亀山
大日本帝国陸地測量部 明治25年測図(同27年製版) 亀山


45 三重県鈴鹿郡亀山町地図
   昭和6年(1931) 個人
 羽若(亀山町大字羽若)の集落を通る南北道路に直交する、南東から北西方向の直線道路が記録されています。
 昭和6年になると、無線電信局の東に南北方向の道がつくられ、新しく十字路ができていますが、これより西へのびる道は44と変わりません。
三重県鈴鹿郡亀山町地図
三重県鈴鹿郡亀山町地図
三重県鈴鹿郡亀山町地図
三重県鈴鹿郡亀山町地図


46 米軍撮影空中写真 R470
   昭和22年(1947) 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 昭和22年11月4日に米軍が亀山町を撮影した空中写真。45の北西方向への道を空中写真で見たようすです。南東から北西方向の直線道路が写っています。
米軍撮影空中写真 R470
米軍撮影空中写真 R470


(3)郷

 律令国家の地方行政組織の末端の単位が郷です。元来、国郡の下部組織は里でしたが、里から郷に改名されて国郡郷となり、郷の下に里が位置づけられる郷里(ごうり)制になるも、さらにその後、里が廃止され、郷制のみとなる変遷を遂げました。郷は、五十戸で編成され、郷長が管理しました。
 鈴鹿郡内には、7つの郷があったとされ、そこには人々が暮らした様々な痕跡が確かめられます。本節では、現在の亀山市域を中心に古代の鈴鹿郡内に残された古墳時代から平安時代までの資料を集めてみました。その中には、鈴鹿関に関連するであろうと思われる資料群も含まれています。これらの資料から、古代の鈴鹿郡が形作られた様々な要素を探り、そうした社会背景の中に存在した鈴鹿関の姿に迫ってみます。


47 倭名類聚鈔 巻第六
   元和3年(1617) 亀山市歴史博物館(明倫館文庫)
 鈴鹿郡には、英多(あがた)・高宮・長世(ながせ)・鈴鹿・枚田(ひらた)・神戸・駅家(うまや)の7郷がありました。
倭名類聚鈔 巻第六


 精神的境界 
F新道岩陰(しんみちいわかげ)遺跡[亀山市関町新所]

 弥生時代後期から古墳時代前期の遺跡。鈴鹿川脇の断崖下の巨大な岩の裾にあり、土器・動物遺体・貝類が出土しています。岩を神聖視して祭祀を行った場所とも考えられます。
 鈴鹿川と加太(かぶと)川の合流手前の断崖に位置しており、その北東に鈴鹿関跡西辺築地塀(ついじべい)跡が確認されました。推測を重ねれば、鈴鹿関が設けられる以前から人々に境界として認識され、祭祀場所とされたと考えられるのではないでしょうか。
新道岩陰遠景(北から)
新道岩陰主要部


48 甕・貝類
   古墳時代前期(4世紀) 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 (かめ)は東海系S字甕の口縁部。貝類はハマグリとアカニシ。1点はハマグリを研磨加工した貝輪とみられます。出土した貝類は、多くが海産性で、持ち込まれたものと考えられます。
甕・貝類
甕・貝類

G笹ヶ平古墳[亀山市関町金場(せんどう)金場(かねば)]

 直径18m前後の小規模な墳丘からなる円墳。加太川左岸の山地の南側、標高約160mの緩斜面に位置しています。ここは、周辺の生活域から離れ、かつ奈良時代以前から伊賀と伊勢を結ぶ道を眼下に見るという特徴的な場所です。畿内系石室の分布域東端の古墳であり、古墳時代後期にも当地が境界の要素をもっていたのではないかと考えられます。ここから約2.5q東に鈴鹿関西辺築地塀が設けられました。


49 笹ヶ平古墳石室(写真・測量図)
   古墳時代後期(6世紀後半) 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 石積の羨道(せんどう)左片袖(ひだりかたそで)横穴式石室(よこあなしきせきしつ)を持ち、構造から6世紀後半までに築造されたと考えられます。古代鈴鹿郡最西端の高台にあり、周辺には同時代の遺跡が全く存在しないという特殊な古墳で、畿内系石室の東端事例です。
笹ヶ平古墳石室(写真・測量図)
笹ヶ平古墳石室(写真・測量図)

 鈴鹿関西辺築地塀が見つかった付近では、祭祀遺跡ともみられる特殊な遺跡が確認されており、関の設置以前から境界の意識が持たれていた可能性もうかがえます。近隣では、郡域最西端の笹ヶ平古墳が確認され、この古墳は畿内系石室東端例でもあります。このあたりは、律令国家の国境画定以前から境界とされる地域であったのではないでしょうか。確認された鈴鹿関の設置場所は、鈴鹿関設置以前から境界とされてきた地で、かつ境界をはさんで都から遠い側(東側)にあたります。このことは、関には、国境をはさんで都から遠い方の国に設けられるという配置原則があるという説に対しても、合致しています。


 信仰 
H鈴鹿関跡(大日森遺跡)[亀山市関町新所]

 大日森(だいにちのもり)遺跡は、関町新所(しんじょ)の字水落(みずおとし)地内にあり、現在は鈴鹿関跡に包摂されます。6世紀末から12世紀の遺物が採集され、「大日田」や「大日森」と呼称される地域で、大日堂があったと伝えられています。平安時代後期の瓦(No.51)と塼仏(せんぶつ)(No.52)からは、瓦葺きの堂舎内が小さな仏像で荘厳されていたのではないかと考えられます。
 こうした遺物から、鈴鹿関の実動期を過ぎた平安時代以後、鈴鹿関内であった場所で人々が生活していたことがうかがえます。


鈴鹿関跡(大日森遺跡)
 左手にJR関西本線、奥には加行山(がんごやま)が見えます。
鈴鹿関跡(大日森遺跡)


50 須恵器
   古墳時代後期(6世紀末〜7世紀)
   木ア嘉秋氏・亀山市歴史博物館・亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 採集された須恵器。小壺・坏身・坏蓋・壺口縁部が確認されています。
須恵器


51 複弁蓮華文軒丸瓦・唐草文軒平瓦
   平安時代後期(11世紀末〜12世紀) 木ア嘉秋氏
 採集された軒瓦。軒丸瓦は、四葉の蓮弁と間弁を表現した複弁蓮華文軒丸瓦、軒平瓦は、中心に宝相華文(ほうそうげもん)を配した唐草文軒平瓦です。
複弁蓮華文軒丸瓦・唐草文軒平瓦


52 塼仏
   平安時代後期 木ア嘉秋氏
 腹前で手指を定印(じょういん)に結び、足を結跏趺坐(けっかふざ)(両足を交差させ、足先をふとももの上に重ねる形)に組んだ姿の如来坐像(にょらいざぞう)が表現されています。台座と光背もともにつくられています。残る5体は頭部を欠いており、手指が摩滅、欠損していることから、詳細は不明ですが、同様の姿をしていたと考えられます。また背面には円孔があり、堂舎内を荘厳(しょうごん)していた可能性が考えられます。11世紀から12世紀にかけてのものと推定されます。
セン仏
セン仏


 文字を書くひとびと 
I御幣立(おんべだち)遺跡[亀山市能褒野(のぼの)町・川崎町]

 奈良時代の掘立柱建物や竪穴住居が検出されており、集落遺跡とみられます。長者屋敷遺跡(伊勢国府跡)から西へ約1qに位置しています。


53 刻書土器
   奈良時代 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 土師器(はじき)(つき)の底部に文字を刻んでいます。伊勢国府の官人など文字を書ける人物が暮らしていたのではないかと推測されます。
刻書土器
刻書土器

J田茂遺跡[亀山市田茂町]

 奈良時代から平安時代の集落遺跡。奈良時代から平安時代を中心に、室町時代にかけての遺物が出土しています。


54 円面硯
   奈良時代 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 末広がりの脚部に方形の透穴(すかしあな)が2対1組で3組入った円面硯(えんめんけん)
円面硯

K西野遺跡[亀山市和田町・栄町]

 奈良時代から鎌倉時代まで断続的に存在したきわめて小規模な集落遺跡。本遺跡の北にある柴戸遺跡の集落から派生しました。中世に設けられた集落内もしくは周辺の耕作地を通るための道が確認されていることも注目されます。


55 円面硯
   奈良時代 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 末広がりの脚部に長方形の透穴が均等に入った円面硯。
 田茂遺跡・西野遺跡ともに集落遺跡であることから、官衙(かんが)の役人が利用したというよりも、地域に存在した文字を書ける人物が使用した(すずり)という可能性も考えられます。
円面硯

L沢遺跡[亀山市山下町]

 縄文時代前期から室町時代にかけての集落跡、古墳、城跡。市内を代表する縄文時代の遺跡であり、古代と明確に判断できる遺構は確認できていません。


56 墨書土器・緑釉陶器
   奈良時代〜平安時代 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 平安時代前期(8世紀末〜9世紀)の土師器皿の底部には、「平」の墨書があります。奈良時代から平安時代の緑釉陶器片は、尾張系のものとみられます。官衙的な要素をうかがわせる遺物は、鈴鹿関との関連を想像させます。
墨書土器・緑釉陶器
墨書土器・緑釉陶器

 奈良時代には、文字が記された土器、文字を書くために使用する硯が確認され、文字の読み書きができる人々の存在が見えてきます。伊勢国府や鈴鹿関などの公的機関に出仕した官人や地域の有力者に関わるものではないかと推測されます。


 貨幣 
M亀山市阿野田町



57 和同開珎
   奈良時代 亀山市歴史博物館
 阿野田町で発見された和同開珎。和同開珎は、和銅元年(708)に鋳造が開始されました。市内では1例のみの確認ですが、和同開珎がもたらされていたことがうかがえます。
和同開珎


58 名古屋新聞 第14596号(部分)
   昭和11年(1936)10月24日 皇學館大学研究開発推進センター史料編纂所
 和同開珎(No.57)発見の経緯が紹介されています。記事によれば、昭和5年(1930)、亀山町大字阿野田での電柱建設工事中に見つけたものということです。


 くらし 
N柴戸遺跡[亀山市栄町・川合町(かわいちょう)

 弥生時代から平安時代にかけ、繰り返し墓域と集落として利用された遺跡。特に、弥生時代後期から古墳時代初めにかけての集落は、椋川流域の中心的な集落であったとみられます。


59 須恵器・灰釉陶器
   奈良時代 亀山市歴史博物館
 須恵器の椀・蓋は7世紀末〜8世紀、灰釉皿は10世紀第U四半期のもの。
須恵器・灰釉陶器

O網中遺跡[亀山市辺法寺町]

 飛鳥・奈良時代の小規模な集落遺跡。12世紀から17世紀初めまで続いた水田跡が確認されました。


60 土師器
   飛鳥時代(8世紀初頭)〜平安時代前期(8世紀後半〜9世紀中頃)
   亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 把手付鍋(はしゅつきなべ)長胴甕(ちょうどうがめ)は、710年前後のもの。また、底部を抜いて組み合わせた長胴甕は、8世紀後半から9世紀中頃のもので、煙道として転用されたと考えられます。
土師器


61 平瓦片
   奈良時代 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 凸面に縄目の叩き痕が残ります。凹面は摩滅しているため、調整は確認できません。
平瓦片

P地蔵僧遺跡[亀山市川崎町]

 縄文時代草創期から奈良時代にかけての大規模な複合遺跡。出土する古墳時代の(かめ)の形式変化は、近江への交通路の接点に位置することに関連すると思われ、この遺跡の特徴といえます。


62 土師器甕
   奈良時代 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 屋外炉跡と考えられる遺構の炉穴内から出土した甕。
土師器

Q小野城跡[亀山市小野町]

 平安時代から江戸時代初めまでの集落遺跡。戦国時代には、関氏の配下の小野氏の居館である小野城として利用されました。


63 緑釉陶器
   平安時代中期(11世紀初頭) 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 緑釉陶器の椀。産地は近江と考えられます。遺跡からは、方位をそろえた平安時代中期の建物群が検出されており、古代の役所や倉庫群といった建物である可能性が考えられます。そこには、緑釉陶器(りょくゆうとうき)を使用できる人物がいたのではないかと推測されます。
緑釉陶器


小野城跡遺構図
   亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 発掘調査で確認された道路遺構を赤色で塗っています。南北に続いていることがわかります。
小野城跡遺構図


道路痕跡
   亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 2本の溝にはさまれた道路痕跡。平成8年(1996)の調査前まで地域で利用されていた道、そして現在の道路(市道小野2号線・4号線)とも重なります。この道は、関町会下(えげ)と小野町古里地区を結ぶ道で、「寺道」と呼ばれました。平安時代中頃から現在まで継続して利用された道と考えられます。
道路痕跡


道路痕跡現状(北から・亀山市小野町)
道路痕跡現状(北から)

R光於堂(こうおどう)遺跡[亀山市中庄町]

 古墳時代後期から江戸時代中期まで断続的に存在した小規模集落跡。本遺跡からは緑釉陶器(りょくゆうとうき)が出土しました。周辺に昼生荘(ひるおのしょう)が存在するものの、官衙(かんが)遺跡や大規模集落跡ではなく、小規模集落跡での緑釉陶器の出土は、当地の位置づけや緑釉陶器の流通を考えるうえで意義深いのではないかと考えられます。


64 土師器・須恵器・緑釉陶器
   奈良時代・平安時代中期(11世紀初頭) 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 獣脚、緑釉把手付水注口頸部、須恵器壺底部、土師器壺口縁部、須恵器坏身。緑釉の器種として例の少ない水注(すいちゅう)が出土したことは、注目されます。
土師器・須恵器・緑釉陶器

 一般の人々が暮らした古代の集落遺跡からは、飛鳥時代から平安時代まで、竪穴住居でカマドや土器を使った暮らしを営んでいたことが見えてきます。また、平安時代の信仰の痕跡も残されています。仏像が安置されたであろう堂舎の存在は、周辺に住まう人々の存在を浮かび上がらせます。同じく平安時代の緑釉陶器もいくつか確認されています。国産陶器の最高級品がもたらされていたことは、当地の有力者の存在をうかがわせます。


出品遺跡地図(亀山市域)   ※亀山市全図を加工
出品遺跡地図(亀山市域)

   

凡例  1.亀山市内の国史跡  2.道を塞ぐ―内乱の時代―  3.鈴鹿関と制度―奈良時代の政策― 
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