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凡例  1.亀山市内の国史跡  2.道を塞ぐ―内乱の時代―  3.鈴鹿関と制度―奈良時代の政策― 
4.鈴鹿郡の古代  5.鈴鹿関跡  協力者・参考文献・出品一覧



ごあいさつ

 亀山市には、日本古代史を代表する遺跡があります。亀山市関町(せきちょう)新所(しんじょ)で確認された鈴鹿関跡(すずかのせきあと)です。鈴鹿関跡は、令和3年(2021)3月26日、国の史跡に指定されました。鈴鹿関跡は、平成18年(2006)に学術発掘調査を始め、これまで9次にわたる調査を行ってきました。発掘調査は今後も継続しますが、遺跡が国の史跡に指定された本年は、発掘調査の開始から15年目を迎える年でもあります。そこで、国史跡指定を記念して改めて鈴鹿関を紹介する企画展を開催いたします。
 鈴鹿関は、『日本書紀』や『続日本紀(しょくにほんぎ)』、さらには古代の法律である律令(りつりょう)にも登場する三関(さんげん)のひとつです。律令で定められた三関の役割は、平常時は交通管理施設、非常時は軍事防衛施設として機能することでした。
 このように文献史料では、鈴鹿関が律令国家にとって重要な場所であることは明らかであったものの、その場所は長らく不明なままでした。ついに発見されたのが、平成17年のことでした。そして、翌年から発掘調査を始め、現在まで継続して調査・研究を行ってきました。これまでの発掘調査によって、鈴鹿関跡の西端に設けられた築地塀(ついじべい)の存在が明らかとなりました。全長650mを超えるとみられる西辺築地塀は、版築(はんちく)で壁をつくり、屋根には瓦を葺いていたと考えられます。
 改めて文献史料と重ね合わせてみると、史料からみえる鈴鹿関の姿は、発掘調査成果である西辺築地塀の姿とつながってきます。巨大な壁は、人々に威圧感を与えるとともにその進入を防いだと考えられ、律令国家の戦略として設けられたといえるでしょう。
 また、本企画展では、鈴鹿関跡そのものだけでなく、鈴鹿関が所在した古代の鈴鹿郡の姿についても検討を試みています。郡内のようすを探ることが、鈴鹿郡や郡内の郷によって支えられていたであろう鈴鹿関の実像に迫るひとつの方法ではないかと考えたためです。少しでも新たな鈴鹿関像を感じていただければと思います。
 最後になりましたが、本企画展の開催にあたり、ご教示、ご協力をいただきました皆様に厚くお礼申し上げます。なお、本企画展は、公益財団法人岡田文化財団の助成を得ています。


令和3年10月
亀山市歴史博物館


   

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