(2)道とセキ
飛鳥時代・奈良時代には、三関以外にいくつもの関が存在しました。そして、関を通過するには、通行許可証である過所が必要でした。関を通過できる人は限られており、駅鈴(36)や伝符を持った官人、名簿に記載された運脚や防人等、過所の所持者と定められていました(衛禁律私度関条)。過所は、必要事項を記入のうえ、所管官庁へ提出し、許可されたもので(23:公式令過所式条)、通行者は許可済の過所を持参しました。
7世紀後半には関の管理者たる「勢岐官」「塞職」との官職名を記した木簡が出土しています。過所の存在からは、道を通過する人々の管理を行ったことがみえ、交通管理施設としてのセキは、大宝律令による三関の制度整備前から存在していました。
12 写真 木簡「□〔道ヵ〕勢岐官前□」
飛鳥時代(7世紀後半) 奈良文化財研究所
石神遺跡(奈良県高市郡明日香村飛鳥)出土。道中の「勢岐官」へあてた木簡です。目的地までにある複数の関を通過する際に必要となった過所と考えられます。
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13 写真 木簡「・・・符処々塞職等受」
飛鳥時代(7世紀後半) 奈良文化財研究所
藤原宮跡(奈良県橿原市醍醐町)出土。中央の官司から複数の「塞職」に対して下した命令が記されていましたが、その内容は欠損しています。命令先となった関は、大和盆地周辺に設けられていたものとみられます。
※符:所管の上級官司から被官の下級官司に出す下達文書。
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14 日本書紀 巻第二十五
明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
大化2年(646)に発せられた大化改新詔の第二では、中央・地方行政組織の編成が取り上げられます。その中のひとつが「関塞」であり(『日本書紀』大化2年正月甲子朔条)、関を管理する官人が必要とされていたことがわかります。
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15 複製 木簡「関々司前解・・・」【原資料:国宝】
飛鳥時代(8世紀初頭) 奈良文化財研究所
平城宮跡(奈良県奈良市佐紀町)の宮造営時に埋め立てられた下ツ道の西側溝から出土。701−710年に作成された木簡です。里長の尾治都留伎から複数の関司にあてて作られたもので、伊刀古麻呂と大宅女が、近江国蒲生郡阿伎里から藤原京へ戻るまでに通過する関で必要となる過所です。
※解:下級官司から所管の上級官司に出す上申文書。
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16 続日本紀 巻第十
明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
史生・{杖の赴任に際して発行する発給書類の変更に関する記述(『続日本紀』天平元年(729)5月庚戌(21)条)。変更前の式部省符にも、変更後の太政官符にも関司に対し、調査のうえ通過させるよう述べる「関司勘過」(関司、勘過せよ。)の文言が記されていました。関には、関を守る官人である関司が置かれ、通行者の管理を行いました。
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17 複製 木簡「・・・謹解 川口関務所・・・」【原資料:国宝(奈良文化財研究所所蔵)】
奈良時代(8世紀中頃) 国土交通省近畿地方整備局国営飛鳥歴史公園事務所
平城宮跡の内裏地区から出土。天平17年(745)−19年(747)頃のものと推定されています。伊勢国川口関(津市白山町)の管理機関である「川口関務所」に対し、本籍の所在地である「本土」へ帰るために関を通過することを願い出た過所とみられます。大型であること、過所とともに多くの習書があることなどから、様々な理解がなされていますが、平城宮跡で廃棄されていることから、実際に伊勢国へ持参したものではないと考えられます。
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「聖武天皇関宮宮阯」石碑(津市白山町)
天平12年(740)、聖武天皇が関東行幸の折に滞在した河口頓宮である関宮の候補地に建立されました。川口関も頓宮の近辺にあったと考えられています。
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18 萬葉集正訓 巻六下
昭和7年(1932) 亀山市歴史博物館
天平12年(740)の聖武天皇の伊勢国、美濃国を経て恭仁宮へと入った関東行幸に際し、詠まれた八首。うち、10日間は河口頓宮に滞在しました。本頓宮は川口関(17)の近辺であると考えられます。
また、本書の執筆者の山脇萬吉は、この行幸に際し八首が詠まれ、五首が伊勢国河口行宮、二首が美濃国多芸行宮、一首が美濃国不破行宮での作歌であるとします。松原・四泥能埼について、自身の生誕地である亀山、赴任先の富田など、自らの地理観を生かした言及があることも注目されます。
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コラム 国語学者 山脇萬吉
『萬葉集正訓』を著した山脇萬吉は、明治時代に亀山町で生まれました。国語教師でもあり、国語学の研究者でもありました。特に、和歌や漢文の訓読に注目して研究を深めました。晩年は、万葉集の読み方を研究し、正訓(漢字本来の意味に即した正しい訓み方)を解説した『萬葉集正訓』を執筆しました。最初の一巻を昭和4年(1929)に刊行。巻二以後は刊行されないまま、昭和11年に亡くなったため、未刊行部分は、原稿が残されるのみです。本書の序文は、万葉集研究者でもあった佐佐木信綱によるもので、山脇が万葉集研究者として評価されていたことをうかがわせます。
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