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凡例  1.亀山市内の国史跡  2.道を塞ぐ―内乱の時代―  3.鈴鹿関と制度―奈良時代の政策― 
4.鈴鹿郡の古代  5.鈴鹿関跡  協力者・参考文献・出品一覧

第2章 道を塞ぐ―内乱の時代―

 飛鳥時代・奈良時代には、壬申(じんしん)の乱をはじめとして、たびたび内乱が起こりました。壬申の乱の際、大海人皇子(おおあまのおうじ)は、「不破道」「鈴鹿山道」を塞ぐ命令を出しました。乱に勝利し天皇(天武天皇)として即位すると、中央集権国家の建設をめざし律令(りつりょう)の編さんを進めました。最終的に、鈴鹿関を含む三関(さんげん)の制度は大宝律令で確立しますが、その設置は天武天皇期に行われたのではないでしょうか。天武天皇は、壬申の乱の際、道を塞ぐことが国家の軍事戦略となりうると認識したであろうことや、「政要(まつりごとのぬみ)軍事(いくさのこと)なり。」との詔を発してもいます。このような国家による統一的な軍事体制の整備を背景に、三関の設置が行われたと考えられます。
 また、関は律令で規定された三関のみではありませんでした。道の通行者の管理は、三関のみではなく、道々に設置された関で行われていました。いくつもの関で人の動きを管理することが、国家の考える支配体制のあり方だったのではないでしょうか。


大山越(伊賀市柘植町)
大山越(伊賀市柘植町)

(1)壬申の乱

 壬申の乱は、古代最大の内乱とも評される皇位継承争いです。天智天皇亡き後、弟の大海人皇子と息子の大友皇子(おおとものおうじ)が次代を争いました。大海人皇子軍は、吉野から伊勢、東国へ向かい軍勢を整えました。大海人皇子は、吉野を発つ前には不破道を塞ぐこと、伊勢に入っては鈴鹿山道を塞ぐことを命じました。『日本書紀』の壬申の乱の記事には、「鈴鹿関司(すずかのせきのつかさ)」が登場しており、これが鈴鹿関の史料上の初見です。壬申紀は、道を塞ぐという軍事的戦略の重要性をうかがわせます。
 また、壬申の乱は、江戸時代には浮世絵や名所図会のテーマとしてとりあげられています。後世の人々が考える壬申の乱のイメージもあわせて紹介します。



9 日本書紀 巻第二十八
   明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
 天武天皇元年(672)6月、大海人皇子軍は大山を越えて鈴鹿郡へ到着し、「鈴鹿山道」を塞がせました(『日本書紀』天武天皇元年6月甲申(24)条)。この地が、大宝律令以後に制度が整備され、鈴鹿関につながったと考えられます。
日本書紀 巻第二十八


壬申の乱における大海人皇子の行程
壬申の乱における大海人皇子の行程


鈴鹿関の始まり
   〜史料から〜
 鈴鹿関の設置時期は明確ではありません。検討の鍵となる史料が、『日本書紀』の壬申の乱の記事(9)です。ここには、「鈴鹿関司」という官職名が登場します。これが「鈴鹿関」の史料上の初見です。本条から考えられることは2つあります。
 1.鈴鹿関は壬申の乱の際、すでに存在していた。
 2.官職名の記録はあるものの、大海人皇子が関を通過した際の動向が何も記されていないことから、軍事的機能を持つ三関としては確立していなかった。律令で規定される前の姿、いわば鈴鹿関の前身であった。


   〜発掘調査から〜
 現在のところ、鈴鹿関跡から、壬申の乱期の遺構・遺物は検出されていません。
 また、三関のひとつ不破関(ふわのせき)では、土塁の中に(かめ)に納められた和同開珎(わどうかいちん)が埋められていました。そのため、不破関は、和同開珎発行の和銅元年(708)以後に築造されたと考えられています。

※鈴鹿関の設置時期は、発掘調査の成果とあわせて検討する必要があり、今後の課題です。


10 伊勢参宮名所図会 巻之二
   寛政9年(1797) 亀山市歴史博物館
 京から東海道―東追分―参宮道のルートで伊勢神宮へ向かう街道筋の所々を名所や旧跡、故事を盛り込みながら文章と挿絵で案内する版本の旅行ガイド。
 「清見原天皇鈴鹿川を渡り給ふ図」では、壬申の乱の折、大海人皇子が鹿伏兎(かぶと)(加太)で出会った大山祇神(おおやまずみのかみ)の案内で鈴鹿川を渡ろうとした際、増水した川を渡るために鹿がやってきて皇子を乗せて渡ったという話を描いています。最後は、この鹿が「駅路の鈴」をつけていたことから、当地を「鈴鹿」と呼ぶという地名伝承を記しています。

伊勢参宮名所図会 巻之二


11 東海道五十三対 坂の下
   天保14年(1843)−弘化4年(1847) 亀山市歴史博物館
 東海道五十三対は、初代歌川広重、三代歌川豊国、歌川国芳の3名による合作の揃物。本作は広重による一枚で坂の下を描いています。
 詞書(ことばがき)には、壬申の乱の折、ある翁が鈴鹿山まで逃れてきた大海人皇子をかくまい、皇子は翁の娘を愛し、自らの身元を明かしたところ、翁は誠心を尽くして皇子に仕えたこと、そしてその翁をまつった社が鈴鹿神社(現:片山神社・亀山市関町坂下)である、との神社の由来を記します。絵には、作成の時代を反映してか、江戸時代の装束をまとった大海人皇子と翁の娘、そして翁を描いています。

東海道五十三対 坂の下

(2)道とセキ

 飛鳥時代・奈良時代には、三関以外にいくつもの関が存在しました。そして、関を通過するには、通行許可証である過所が必要でした。関を通過できる人は限られており、駅鈴(えきれい)(36)や伝符を持った官人、名簿に記載された運脚や防人(さきもり)等、過所の所持者と定められていました(衛禁律(えごんりつ)私度関条)。過所は、必要事項を記入のうえ、所管官庁へ提出し、許可されたもので(23:公式令(くしきりょう)過所式条)、通行者は許可済の過所を持参しました。
 7世紀後半には関の管理者たる「勢岐官(せきのつかさ)」「塞職(せきのつかさ)」との官職名を記した木簡が出土しています。過所の存在からは、道を通過する人々の管理を行ったことがみえ、交通管理施設としてのセキは、大宝律令による三関の制度整備前から存在していました。


12 写真 木簡「□〔道ヵ〕勢岐官前□」
   飛鳥時代(7世紀後半) 奈良文化財研究所
 石神(いしがみ)遺跡(奈良県高市郡明日香村飛鳥)出土。道中の「勢岐官」へあてた木簡です。目的地までにある複数の関を通過する際に必要となった過所と考えられます。


13 写真 木簡「・・・符処々塞職等受」
   飛鳥時代(7世紀後半) 奈良文化財研究所
 藤原宮跡(奈良県橿原市醍醐町)出土。中央の官司から複数の「塞職」に対して下した命令が記されていましたが、その内容は欠損しています。命令先となった関は、大和盆地周辺に設けられていたものとみられます。
():所管の上級官司から被官の下級官司に出す下達文書。


14 日本書紀 巻第二十五
   明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
 大化2年(646)に発せられた大化改新詔の第二では、中央・地方行政組織の編成が取り上げられます。その中のひとつが「関塞」であり(『日本書紀』大化2年正月甲子朔条)、関を管理する官人が必要とされていたことがわかります。

日本書紀 巻第二十五


15 複製 木簡「関々司前解・・・」【原資料:国宝】
   飛鳥時代(8世紀初頭) 奈良文化財研究所
 平城宮跡(奈良県奈良市佐紀町)の宮造営時に埋め立てられた下ツ道の西側溝から出土。701−710年に作成された木簡です。里長の尾治都留伎(おわりのつるぎ)から複数の関司にあてて作られたもので、伊刀古麻呂(いとこまろ)大宅女(おおやけめ)が、近江国蒲生郡阿伎(あき)里から藤原京へ戻るまでに通過する関で必要となる過所です。
():下級官司から所管の上級官司に出す上申文書。


16 続日本紀 巻第十
   明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
 史生(ししょう){杖(けんじょう)の赴任に際して発行する発給書類の変更に関する記述(『続日本紀』天平元年(729)5月庚戌(21)条)。変更前の式部省符にも、変更後の太政官符にも関司に対し、調査のうえ通過させるよう述べる「関司勘過」(関司、勘過せよ。)の文言が記されていました。関には、関を守る官人である関司が置かれ、通行者の管理を行いました。

続日本紀 巻第十


17 複製 木簡「・・・謹解 川口関務所・・・」【原資料:国宝(奈良文化財研究所所蔵)】
   奈良時代(8世紀中頃) 国土交通省近畿地方整備局国営飛鳥歴史公園事務所
 平城宮跡の内裏地区から出土。天平17年(745)−19年(747)頃のものと推定されています。伊勢国川口関(津市白山町)の管理機関である「川口関務所」に対し、本籍の所在地である「本土」へ帰るために関を通過することを願い出た過所とみられます。大型であること、過所とともに多くの習書があることなどから、様々な理解がなされていますが、平城宮跡で廃棄されていることから、実際に伊勢国へ持参したものではないと考えられます。


「聖武天皇関宮宮阯」石碑(津市白山町)
 天平12年(740)、聖武天皇が関東行幸の折に滞在した河口頓宮である関宮の候補地に建立されました。川口関も頓宮の近辺にあったと考えられています。

「聖武天皇関宮宮阯」石碑


18 萬葉集正訓 巻六下
   昭和7年(1932) 亀山市歴史博物館
 天平12年(740)の聖武天皇の伊勢国、美濃国を経て恭仁宮(くにきゅう)へと入った関東行幸に際し、詠まれた八首。うち、10日間は河口頓宮に滞在しました。本頓宮は川口関(17)の近辺であると考えられます。
 また、本書の執筆者の山脇萬吉は、この行幸に際し八首が詠まれ、五首が伊勢国河口行宮(あんぐう)、二首が美濃国多芸(たぎ)行宮、一首が美濃国不破行宮での作歌であるとします。松原・四泥能埼(しでのさき)について、自身の生誕地である亀山、赴任先の富田など、自らの地理観を生かした言及があることも注目されます。

萬葉集正訓 巻六下
萬葉集正訓 巻六下
萬葉集正訓 巻六下
萬葉集正訓 巻六下
萬葉集正訓 巻六下
萬葉集正訓 巻六下
萬葉集正訓 巻六下
萬葉集正訓 巻六下
萬葉集正訓 巻六下
萬葉集正訓 巻六下
萬葉集正訓 巻六下
萬葉集正訓 巻六下
萬葉集正訓 巻六下
萬葉集正訓 巻六下
萬葉集正訓 巻六下
萬葉集正訓 巻六下
萬葉集正訓 巻六下


 コラム 国語学者 山脇萬吉 
 『萬葉集正訓』を著した山脇萬吉は、明治時代に亀山町で生まれました。国語教師でもあり、国語学の研究者でもありました。特に、和歌や漢文の訓読に注目して研究を深めました。晩年は、万葉集の読み方を研究し、正訓(漢字本来の意味に即した正しい訓み方)を解説した『萬葉集正訓』を執筆しました。最初の一巻を昭和4年(1929)に刊行。巻二以後は刊行されないまま、昭和11年に亡くなったため、未刊行部分は、原稿が残されるのみです。本書の序文は、万葉集研究者でもあった佐佐木信綱によるもので、山脇が万葉集研究者として評価されていたことをうかがわせます。

万葉集正訓


   

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