亀山こども歴史館トップページ 亀山城(かめやまじょう)と宿場(しゅくば)岡本良勝(おかもとよしかつ)の出身(しゅっしん)

[亀山城と宿場]亀山城(かめやまじょう)は、室町時代(むろまちじだい)から江戸時代(えどじだい)を通(つう)じて、亀山(かめやま)の政治(せいじ)や経済(けいざい)の中心(ちゅうしん)でした。このため、城(しろ)はまちの中心(ちゅうしん)にあってよく目立(めだ)つようにつくられています。どんな特長(とくちょう)があるのかを調(しら)べてみましょう。

岡本良勝(おかもとよしかつ)の出身(しゅっしん)

岡本良勝(おかもとよしかつ)は、太郎右衛門(たろうえもん)、下野守(しもつけのかみ)とよばれることもあります。良勝(よしかつ)の先祖(せんぞ)はもともとは織田氏(おだし)の一族(いちぞく)でしたが、伊勢国宇治岡本(いせのくにのうじおかもと)(伊勢市(いせし))に移(うつ)り住(す)んだため岡本(おかもと)を名(な)のるようになったとされます。尾張国(おわりのくに)(愛知県(あいちけん))の生(う)まれで織田信長(おだのぶなが)に仕(つか)え、織田三七(おださんしち)(信孝(のぶたか))が神戸家(かんべけ)の養子(ようし)となった時(とき)いっしょに伊勢国(いせのくに)にきたとされます。

 

岡本良勝(おかもとよしかつ)が亀山城主(かめやまじょうしゅ)となるまで

岡本良勝(おかもとよしかつ)は1572年(ねん)(天正(てんしょう)2年(ねん))に峯盛祐(みねもりすけ)が戦死(せんし)した後(あと)に峯城主(みねじょうしゅ)となったとされます。本能寺(ほんのうじ)の変(へん)の時(とき)には、織田信孝(おだのぶたか)といっしょに大坂城(おおさかじょう)にいました。その後(ご)、織田信孝(おだのぶたか)から離(はな)れて羽柴秀吉(はしばひでよし)の家臣(かしん)となり、九州(きゅうしゅう)や関東(かんとう)での戦(たたか)いにてがらを立(た)てました。

 

岡本良勝(おかもとよしかつ)亀山城主(かめやまじょうしゅ)となる

1590年(ねん)(天正(てんしょう)18年(ねん))に亀山城主(かめやまじょうしゅ)となり、亀山(かめやま)を中心(ちゅうしん)として2万3千石(ごく)ほどの領地(りょうち)を豊臣秀吉(とよとみひでよし)からもらいました。岡本良勝(おかもとよしかつ)の子孫(しそん)の家(いえ)に伝(つた)わった古文書(こもんじょ)では、岡本良勝(おかもとよしかつ)の父(ちち)である重国(しげくに)が亀山城(かめやまじょう)にいたことがあるので良勝(よしかつ)が亀山城主(かめやまじょうしゅ)になったと記(しる)されています。良勝(よしかつ)がおこなった亀山城(かめやまじょう)の整備(せいび)「岡本良勝(おかもとよしかつ)の亀山城築城(かめやまじょうちくじょう)を見(み)てください。

 

亀山城主時代(かめやまじょうしゅじだい)の岡本良勝(おかもとよしかつ)

岡本良勝(おかもとよしかつ)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の家臣(かしん)として伊勢国内(いせこくない)の秀吉(ひでよし)の領地(りょうち)の管理(かんり)や太閤検地(たいこうけんち)をおこなうとともに、1592年(ねん)(天正(てんしょう)20年(ねん))には、石田三成(いしだみつなり)などとともに朝鮮半島(ちょうせんはんとう)に攻(せ)め入(い)る戦(たたか)いに参加(さんか)しています。

 

岡本良勝(おかもとよしかつ)の最期(さいご)

豊臣秀吉(とよとみひでよし)が亡(な)くなった後(あと)におこった関ヶ原(せきがはら)の戦(たたか)いの時(とき)に、岡本良勝(おかもとよしかつ)は西軍(せいぐん)に味方(みかた)し桑名城(くわなじょう)に立(た)てこもります。戦(たたか)いが終(お)わったあと、桑名城(くわなじょう)にいたほかの武将(ぶしょう)たちが城(しろ)から逃(に)げてしまったことに腹(はら)を立(た)てて切腹(せっぷく)しました。亡(な)くなった時(とき)は59歳(さい)だったとされます。

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