亀山市立川崎小学校6年生 総合的な学習の時間出前授業
「ヤマトタケルの謎」
平成25年12月5日(木)、亀山市立川崎小学校へ出前授業に行きました。生活科室で2クラス合同の授業でした。
「ヤマトタケル」ゆかりの地である亀山、その中でも「ヤマトタケル」のお墓がある能褒野を校区とする川崎小学校で、地域のもつ大切な遺産について学ぶ授業でした。なぜヤマトタケルの話が大切なのか、なぜ教科書に載っているのか、と問いかけながら授業は進みました。
<知ってた?>
• 宮内庁の発掘調査を知らせるNHKの ニュースを映すと 「見たよ。」 • 地図で場所を示しながら 「今回発掘したら横穴式石室が見つかり、出土品から6世紀の古墳だと言うことが分かりました。」 • 「能褒野王塚古墳はヤマトタケルの墓で、4世紀後半の古墳です。だから、お墓が4世紀に作られているので、ヤマトタケルは4世紀の人だろうということになってしまいます…。でも、ヤマトタケルはもっと前の人だと言われています。」 |
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<古墳の位置を地図で示しています> |
発掘調査が行われ、地域の歴史を知るいい機会ですが、天皇家のお墓なので一般に公開されないことも知らせました。
<どっちが正しい?>
「ヤマトタケル」のことは『古事記』と『日本書紀』の2冊に書かれています。 しかし、書いてあることが二つの本で違っているのです。 『古事記』では「倭建」 『日本書紀』では「日本武尊」 どちらが正しいかは分かりませんが、奈良時代には「ヤマトタケル」の「ミコト」という人がいたことになっています。 |
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<実物で表記を見ています> |
<能褒野はどこ?>
☆平安時代の『延喜式』に、国が管理する皇室の墓が「伊勢国鈴鹿郡」の「能褒野」にあると書かれています。↓
「ノボノ」ってどこ?
見渡す限り広い平らな場所をさします。
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昔の人は、四日市市南部から亀山市北東部を「ノボノ」と呼んでいました。そこに、ヤマトタケルの墓があると言われているのだから、ここの「ノボノ」かどうかは分かりません。
☆江戸時代に本居宣長などの学者が研究をしました。江戸時代にヤマトタケルの墓の候補になっていたのは、白鳥塚古墳、武備塚古墳、双児塚古墳の3つでした。
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1879年、明治政府は三重県北部で一番大きい「丁子塚古墳」をヤマトタケルの墓と決めました。「丁子塚古墳」は、今の能褒野王塚古墳のことです。そして、地名も能褒野としようということになりました。
ヤマトタケルの墓があるのなら、ヤマトタケルをおまつりした神社が必要だろう ↓ 120年ほど前、地域の人がお金を集めて能褒野神社を作りました。 |
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<「能褒野神社新築の図」という図面> |
<タケルの謎>
奈良時代に書かれた『風土記』に「日本武天皇」とあります。+画像拡大 | |
天皇家の系図を見ると、ヤマトタケルは景行天皇の子(皇子)です。 ヤマトタケルは、天皇に命じられて、天皇に従わない各地の豪族と戦っています 478年、倭国の王である武(雄略天皇)が中国の皇帝に使いを送り、渡した手紙の中に「私の祖先は戦いを重ねて国を統一した」と書かれています。 |
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<これがヤマトタケルの父、 景行天皇です> |
<悲劇の皇子たち>
ヤマトタケルと同じように、天皇のために戦って亡くなった3人の話が伝わっています。• ヒコイツセ…神武天皇の兄が天皇を助けて戦死
• ウジノワキイラツコ…応神天皇の皇子、武勇に優れ仁徳天皇に位を譲るため自殺
• イニシキイリヒコ…垂仁天皇の皇子、武器を司る、諸国を回って農業を盛んにした
+画像拡大 | |
天皇家のために働いた4人の墓がどこにあるかを示すと、 ↓ 「ヤマト」を囲み、見守っています。 |
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<ほら、「ヤマト」を囲んでいるでしょ> |
<なぜ今ヤマトタケルなのか>
ひとつひとつの話には全部意味があります。それらは日本の歴史にとって重要な話なのです。ヤマトタケルの謎は日本という国がどのようにできてきたのかを知ることにつながっていきます。だからこそ、全国各地にヤマトタケルの像があるし、教科書にも載っているのです。そんなヤマトタケルの墓や神社が小さいときから遊んでいた場所にあることが分かり、校区を見直し、自分たちの地域を誇りに思う気持ちを育てる良い機会になったと思います。
<授業後、資料を手にする子どもたち> | <薄い紙やなあ> <触っていいのかな?> |
子どもたちの感想から
- 雄略天皇とかパソコンには全然のっていなかったことが分かって良かったです。すごく分かりやすかったです。「のぼの町」で亡くなったわけではなく、「のぼの」で亡くなったんですね。ここが、すごくおもしろかったです。
- ヤマトタケルの謎のことや古墳のことがよく分かりました。ヤマトタケルが存在するかは分からないけど、なぜ教科書にのっているのかを教えていただき、相当すごいことだと分かりました。古墳がなぜ能褒野にあるのかもよく分かりました。
- 「日本書紀」と「古事記」に書いてあることが少し違うことは知っていたけど、ヤマトタケルの文字が違うとか、どこまで行ったとか、全く知らなかったので分かってうれしかったです。一番印象に残ったのは悲劇の皇子がいっぱいいたことです。私は、悲劇の皇子の紹介の時、ヒコイツセとウジノワキイラツコはとても人のことを考えている人で、イニシキイリヒコは後のことまで考えられるすごい人だと思いました。たくさんのことを知ることができて良かったです。
提示資料
○実資料
○画像資料(パワーポイント)
- 「校本日本書紀」
- 「古訓古事記」
- 「能褒野神社新築之図」
- 平成25年11月22日NHK津放送局ニュース「日本武尊墓の発掘調査」
- 能褒野王塚古墳復元平面図
- ヤマトタケル行程図
- 日本書紀による皇室系図
- 四方将軍墓配置図
- 各地に建てられたヤマトタケル像