亀山市立昼生小学校6年生出前授業!
「昼生のむかし」
平成28年6月20日、亀山市立昼生小学校6年生へ出前授業に行きました。
社会科で学習している歴史の中で、校区や市域の歴史について実感を持って学ぶことができるように考えて授業を行いました。
1 昼生の由来
昼生小学校校歌3番に「黄金波打つ 昼生谷」と歌っています。 この「昼生谷」に関して「三国地誌」に「ひびる谷」という表記があります。 「ひびる谷」とは、「下庄・神向谷・中庄・三寺・田茂・安知本までをひびる谷、また昼生七郷ともいう」と表記されています。 「ひびる谷」が訛って「昼生谷」となりました。 ひびるは |
2 昼生小の下には何か
これは何でしょう? | |
緑色がついているのも見つかったよ | 高級品の水指しの一部 |
校舎建築前の光於堂遺跡発掘調査から、役人や貴族が使ったものや高級品が見つかっており、小規模な集落があったと考えられます。荘園「昼生荘」につながる集落かもしれません。 |
3 縄文時代のくらし
亀山でも矢じりや |
川合町で発見された |
使いやすくするために石を削って道具を作っていました。今のような道具がない時代、狩りの道具を作るのは大変だったでしょう。 |
亀山市に古墳はどれくらいあるでしょう?100基?300基?500基?1000基? 今確認されているのは、300基ぐらいです。 古墳には、刀・鏡・よろいなどが埋葬されていました。 |
井田川茶臼山古墳で発見された銅鏡の複製 | ずっと土の中にあったのでさびたよろい |
市内最大の古墳は?・・・能褒野王塚古墳 | 実物大の |
能褒野王塚古墳はだれのお墓だろう? 「古事記」には・・・・・・ ヤマトタケルが都へ帰るとき、疲れて足が"三重"に折れ曲がりそうだ、と言いました。そして、「 「やまとは くにのまほろば たたなづく あおがき やまごもれる やまとしうるわし」 と詠んで亡くなり、「白ち鳥」となって飛び立ちました。 「日本書紀」には・・・・・・ 疲れたヤマトタケルは、「能褒野」で亡くなりました。そのとき、30歳でした。父である景行天皇は、家臣を遣わし、伊勢国の「能褒野陵」に葬らせました。すると、ヤマトタケルは「白鳥」となり 「倭国」(今の奈良県)をめざして飛び立ったのです。 ヤマトタケルが亡くなったのは、歴史書(『日本書紀』『古事記』)では2世紀。 能褒野王塚古墳の埴輪は、4世紀末。 どうしてかな?? |
奈良時代(1300年前)に、日本で3か所だけ設けられた施設のひとつです。 東海道という幹線道路を通行する人たちに対して、証明書どおりの人かどうかひとりずつチェックしていました。国の安全を守るための大切な施設でした。 今の"関"という地名も、この"鈴鹿関"の名前にちなんでつけられたものです。 |
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中学の地図帳に載っている「鈴鹿関」 |
学習後、間近で資料を見ました
装飾のついていない硯 | 木の型を使って作っています |
古墳の周囲にある小さな一つ一つが埴輪 | 顔がはっきり写るよ |
4年の先生に説明したよ | 読めるよ「三重に曲がる」 |
肩ひもで鉄のよろいをつっていた | 先生もよろいを着てみました |
児童の感想から
- 一番うれしかったのは、よろいを着せてくれたことです。少し不思議に思ったことは、古墳の模型のはにわが三つおきに一つひれや朝顔がついていたことです。
- 三重県に鈴鹿関という日本に3つしかないものの内の1つがあるのがすごいと思いました。遺物をさわらせてもらったことが一番うれしかったです。
- 日本書紀や古事記を初めて見ました。でも意味が全然分かりませんでした。日本書紀と古事記の内容が少しちがうと教えてくれたことがとてもうれしかったです。一番おどろいたのは校歌の3番に入っている昼生谷は、ヒビル谷が由来とわかったことです。
- 一番おどろいたのは、昼生小学校の下に遺物がうまっていたことです。聞いたことはあったけど、貴重な物のかけらなどがあると聞いておどろきました。本物を見れてうれしかったです。
- 鏡を持ってみると、思ったよりだいぶ重かったです。古墳の模型もはにわがとても細かく作っていてはにわのひれや朝顔の部分がとても細かったです。
<実物資料>
石斧
能褒野王塚古墳(模型)
古事記
日本書紀
横矧板鋲留短甲 (複製)
同向式画文帯神獣鏡 (複製)
獣脚(硯の一部)
円面硯
緑釉把手付水注
重廓文 軒平瓦
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