江戸時代(えどじだい)の河川改修(かせんかいしゅう)の中心(ちゅうしん)となった人物(じんぶつ)
江戸時代(えどじだい)の武士(ぶし)に生田理左衛門(いくたりざえもん)という人(ひと)がいました。理左衛門(りざえもん)は、正徳(しょうとく)3年(ねん)(1713)に備中国(びっちゅうのくに)松山藩(まつやまはん)(現在(げんざい)の岡山県(おかやまけん)の一部(いちぶ))で生(う)まれました。理左衛門(りざえもん)は、子(こ)どもの頃(ころ)より算術(さんじゅつ)(算数(さんすう))や測量(そくりょう)(山(やま)や川(かわ)、家(いえ)、道路(どうろ)などを正確(せいかく)に測(はか)ること)を学(まな)び、24歳(さい)の時(とき)には川(かわ)の流(なが)れを変(か)える工事(こうじ)も学(まな)びました。
延享(えんきょう)元年(がんねん)(1744)に藩主(はんしゅ)(お殿様(とのさま))の領地替(りょうちが)えにより、亀山(かめやま)へ引(ひ)っ越(こ)してきた理左衛門(りざえもん)は、時々(ときどき)椋川(むくがわ)や鈴鹿川(すずかがわ)で洪水(こうずい)がおこり、椋川(むくがわ)の洪水(こうずい)では川合村(かわいむら)の家(いえ)や田(た)んぼに被害(ひがい)が出(で)て、鈴鹿川(すずかがわ)の洪水(こうずい)では、野村(のむら)の和賀(わが)や野尻村(のじりむら)などの田(た)んぼに被害(ひがい)が出(で)ることを知(し)りました。そこで、理左衛門(りざえもん)は、この災害対策(さいがいたいさく)として、川(かわ)の流(なが)れを変(か)える河川改修工事(かせんかいしゅうこうじ)を行(おこな)うことにしましたが、自分(じぶん)の財産(ざいさん)だけでは費用(ひよう)が足(た)りなかったので、紀州(きしゅう)(和歌山県(わかやまけん))領(りょう)の富豪(ふごう)(お金持(かねも)ちの人(ひと))、野尻村(のじりむら)の大庄屋(おおじょうや)の打田権四郎(うちだごんしろう)の援助(えんじょ)をえて工事(こうじ)を行(おこな)いました。
そして、天明(てんめい)元年(がんねん)(1781)にこの工事(こうじ)は完成(かんせい)しました。現在(げんざい)、椋川(むくがわ)のうち新川(しんかわ)と呼(よ)ばれている場所(ばしょ)と、鈴鹿川(すずかがわ)の守口遺跡(もりぐちいせき)(野村(のむら))が、この生田理左衛門(いくたりざえもん)が工事(こうじ)をおこなった場所(ばしょ)です。
鈴鹿川改修工事(すずかがわかいしゅうこうじ)
椋川改修工事(むくがわかいしゅうこうじ)