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凡例  1.日本書紀の編さんと解釈  2.日本武尊と弟橘媛の物語  3.日本武尊の死 −「能褒野」を考える− 
4.日本武尊と現代 −社会とのつながり−  協力者・参考文献・出品一覧

第3章 日本武尊の死 −「能褒野」を考える−

 『日本書紀』による日本武尊の最期は、ふるさとである倭をめざしながらも、「能褒野」で亡くなり、その死を嘆き悲しんだ父の景行天皇の命により陵が造られ埋葬されるも、棺から白鳥と化して飛び立った、というものです。亡くなった「能褒野」および葬られた「能褒野陵」の地は、『日本書紀』編さん時には、おそらく具体的なイメージがあったものと思われます。
 「能褒野」とは、『日本書紀』によれば曠野、つまり広々とした原野を意味しています。この「能褒野」について、活発な検討が始まるのは江戸時代になってからのことです。幕府によって修陵事業が実施され、また国学者たちも陵墓の比定を始めます。その過程で、日本武尊の最期の地である「能褒野」および「能褒野陵」の場所も研究されます。江戸時代には、白鳥塚(しらとりづか)が最有力地と考えられていました。明治時代になると、亀山藩による二子塚の推挙などがあり、決定前の候補地は、白鳥塚(鈴鹿市石薬師町)、武備塚(たけびづか)(鈴鹿市長澤町)、二子塚(ふたごづか)(鈴鹿市長澤町)、丁子塚(ちょうしづか)(亀山市田村町)の4か所となりました。
 能褒野墓の決定は、明治9年(1876)の白鳥塚決定、同12年の丁子塚への改定という変遷を経ています。改定の背景は不明ですが、決定後に能褒野神社の神職を勤めた伊藤家では、熱心に資料を集めていた痕跡があることから、こうした地域の力も何らかの影響を与えた可能性が推測されます。
 現在、「日本武尊 能褒野墓」とされる能褒野王塚古墳は、採集された埴輪の年代などから、古墳時代前期末から中期初頭に築造されたものとみられます。全長約90mをほこる北勢地域最大の前方後円墳です。周囲には、陪冢(ばいちょう)や発掘調査によって確認された小古墳からなる古墳群がありますが、この古墳群は、古墳時代後期の築造と考えられ、能褒野王塚古墳との系譜的な関連性を見いだすことはできません。検証資料が限定されるものの、今後も継続的な検討が必要であると考えています。

(1)日本武尊の墓

 『日本書紀』には、自らの死を感じた日本武尊は、ふるさと倭国(やまとのくに)をめざしたものの「能褒野」で力尽きて亡くなり、息子の死を嘆いた景行天皇の命により、「能褒野陵」に葬られたと記されています。『日本書紀』が編さんされた当初は、日本武尊の墓である「能褒野陵」は具体的な場所がイメージされていたと考えられます。


11 日本書紀 巻第七
   寛文9年(1669) 田上家
 日本武尊は、五十葺山で神による災いにあい、体が痛むようになります。倭国をめざし歩を進めるも、力尽き「能褒野」で亡くなりました。彼の死を嘆き悲しんだ景行天皇の命により、「能褒野陵」に葬られたのです。
 本書は、長瀬神社の神官であった田上家所蔵本です。長瀬神社は、江戸時代に能褒野の候補地であった武備塚を境内に有します。本書には多数の朱書注記がみられますが、これらはその研究過程のひとつとも考えられます。「能褒野」について見てみると、延喜式の記述を引用しています。


12 訂正古訓古事記 中
   大正2年(1913) 田上家
 『古事記』では、なんとか「能煩野」まで到った倭建命(やまとたけるのみこと)は、故郷を思った「思国歌(くにしのびうた)」を詠み亡くなり、そして、(きさき)御子(みこ)たちによって能煩野に御陵が作られたとします。


13 訂正古訓古事記 中
   明治3年(1870) 伊藤家
 前出の『訂正古訓古事記』と同本です。本書は、能褒野神社神官家によって設けられた学校「伊勢国学館」所蔵本です。
 注目すべきは、巻首の朱印です。高宮鈴本氏の蔵書印が押印され、加佐登(かさど)神社神官家旧蔵本であることを示しています。能褒野候補地であった白鳥塚を有する加佐登神社と能褒野王塚古墳を有する能褒野神社間で、日本武尊関係書籍を通じた交流が行われていたことがうかがわれます。


14 延喜式 巻第二十一
   慶安元年(1648) 三重県総合博物館
 延喜諸陵寮式には、能褒野墓は、鈴鹿郡にあること、兆域が東西二町、南北二町であり、守戸(しゅこ)(陵墓を管理する戸)が三(えん)であると記されます。


15 続日本紀 巻第二
   明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
 大宝2年(702)8月癸卯(8)条には、倭建命の墓が揺れ、鎮めるため使者を派遣したとあります。つまり、大宝2年には、倭建命の墓の場所が明確であったと考えられます。
 大宝2年は、各地で天災や反乱などが起こる災いの多い年でした。倭建命の墓の揺れも世情不安の表れとして報告されたものではないでしょうか。
続日本紀 巻第二

(2)「能褒野」はどこか

 日本武尊が葬られた「能褒野陵」の場所は、江戸時代になると国学者たちによって、調査、研究が進められました。明治時代には、亀山藩が別案を提示します。そして、4か所の候補地が提示されることになりました。白鳥塚(鈴鹿市石薬師町)、武備塚(鈴鹿市長澤町)、二子塚(鈴鹿市長澤町)、丁子塚(亀山市田村町)の4か所です。
 能褒野の場所は、明治9年(1876)11月、一度は教部省により白鳥塚に決定したものの、同12年10月、宮内省によって丁子塚に改定されました。丁子塚が能褒野であるという建議があったため再調査をし、改定を行ったのです。
 江戸時代には、白鳥塚が能褒野の候補地であるとの見解が強く、丁子塚は、あまり眼中にないようです。しかし、本居宣長や門人の坂倉茂樹は、実際に丁子塚を調査していることから、調査対象とするべき古墳であるとの認識があったのではないでしょうか。


16 日本書紀通証 十二
   宝暦12年(1762) 亀山市歴史博物館
 宝暦12年に刊行された『日本書紀通証(にほんしょきつうしょう)』において、谷川士清(たにがわことすが)は、「能褒野陵」の場所と名称について述べています。場所は、延喜諸陵寮式の引用と度会延佳(わたらいのぶよし)の長世郷の曠野の陵墓の中にあるという説(『鼈頭(ごうとう)古事記』)を引用しています。名称は、「多気比塚」と俗称されているが、建部(たけるべ)転訛(てんか)によるものだ、とします。つまり、谷川は、長瀬神社境内の武備塚を能褒野だと考えていました。
日本書紀通証 十二
日本書紀通証 十二


17 古事記伝 巻二十八
   寛政2年(1790)〜文政5年(1822) 本居宣長記念館
 寛政2年から文政5年に刊行された、本居宣長が著した『古事記』の注釈書です。宣長は、鈴鹿郡の北方は大半が野であり、広々とした曠野のあるひとつづきの大野となっており、その野の名前が能煩野(のぼの)であると述べています。
 巻二十九では、能煩野の候補地を検討しています。第一候補を白鳥塚と考え谷川士清も同意見であるとし、その他、武備塚・二子塚・丁子塚(亀山市田村町・能褒野王塚古墳)にも検討を加えています。


18 書紀集解 第五本
   江戸時代後期 西尾市岩瀬文庫
 文化(1804〜1818)初年に刊行されたと考えられる『書紀集解(しょきしっかい)』において、河村秀根(かわむらひでね)は、延喜諸陵寮式と度会延佳(わたらいのぶよし)の長世郷の曠野の陵墓の中にあるという説(『鼈頭古事記』)を引用しています。これは、谷川士清の『日本書紀通証』と同見解です。

 決定までの三候補地 

 ①白鳥塚(鈴鹿市石薬師町) 

白鳥塚[遺跡名:白鳥塚1号墳](鈴鹿市石薬師町,加佐登神社北西)
白鳥塚[遺跡名:白鳥塚1号墳](鈴鹿市石薬師町,加佐登神社北西)


19 陵墓志
   幕末〜明治時代 西尾市岩瀬文庫
 竹口尚重(たけぐちなおしげ)による写本。竹口は、『日本書紀』に基づき日本武尊の略歴を示した後、墓の場所を考察しています。墓は、馬の(たてがみ)状であり、周囲に堀があるも頂上に樹木がないという形状、周辺に5つの小塚があることから、白鳥塚であると述べています。本居宣長・萱生由章(かようよりふみ)・村田橋彦らが同意見であると紹介しています。


20 首註陵墓一隅抄
   嘉永7年(1854) 西尾市岩瀬文庫
 津久井清影(つくいきよかげ)による天皇・皇族らの陵墓所在地の考証。能褒野墓は、白鳥塚か武備塚のいずれかであると考えています。ただし、武備塚の場所は、菰野から亀山の間にある水原村にあると記していますが、武備塚は長沢村にあることから、何らかの誤記ではないかと思われます。
 また、白鳥塚は、大和国葛上郡冨田村(日本武尊琴引原白鳥陵・奈良県御所市)と河内国丹南郡野々上村(大阪府羽曳野市)、さらに熱田明神(熱田神宮・愛知県名古屋市)にもあることを記しています。


21 諸陵周垣成就記
   江戸時代後期 西尾市岩瀬文庫
 細井知慎(ほそいともちか)の編さんによる歴代天皇陵の所在等の考証。江戸幕府の修陵事業において作成されました。
 日本武尊陵図は、伴信友(ばんのぶとも)(本居宣長没後の門人)によるもので、白鳥塚を描いています。「陵、高十八間、東西廿五間、南面也、今モ此辺ヨリ壺(かめ)ノ類、出ル也」と注記しています。
 また、「白鳥之陵」として、古市郡古市村(白鳥陵古墳・大阪府羽曳野市)も記録しています。


22 陵図脱漏 下
   江戸時代後期〜明治時代初期 伊藤家
 細井知慎の編さんによる『諸陵周垣成就記(しょりょうしゅうえんじょうじゅき)』(出品番号21)を写し、三分冊としたものです。
 西尾市岩瀬文庫本と同内容ですが、白鳥塚南西にある「尊古跡」については、描いているものの注記はないという違いがあります。


23 日本武尊陵(『東海道名所図会 巻二』)
   寛政9年(1797) 亀山市歴史博物館
 『東海道名所図会(めいしょずえ)』の「日本武尊陵」は、庄野宿の項目に記され、白鳥塚を描いています。挿絵は、樹木の本数や人々が描かれていることなどに違いはあるものの、『諸陵周垣成就記』(出品番号21)に近似しています。また、秋里籬島(あきさとりとう)による解説文も、同じく『諸陵周垣成就記』の注記を参考に記されています。
 秋里は、『東海道名所図会』の解説文の最初の立項を「草薙御剣(くさなぎのみつるぎ)」としています。三種の神器である草薙剣に注目するという姿勢は、秋里の独自性を感じさせます。
日本武尊陵(『東海道名所図会 巻二』)


24 書画五拾三駅 伊勢庄野白鳥塚遠景
   明治5年(1872) 国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1305690)
 浮世絵師、歌川芳虎(よしとら)の作品。
 道を尋ねる旅人の一団と答える地元の女性かと思われる人々が描かれています。その人々の背後に森が見えています。これが白鳥塚です。江戸時代末期の白鳥塚は、一見して森のような外見となっていた様子がうかがえます。
書画五拾三駅 伊勢庄野白鳥塚遠景


25 勢陽五鈴遺響 鈴鹿郡
   明治36年(1903) 亀山市歴史博物館
 天保4年(1833)に、郷土史家の安岡親毅(やすおかちかたけ)が記した伊勢国の歴史書。『日本書紀』『古事記』『陵墓志』『諸陵周垣成就記(しょりょうしゅうえんじょうじゅき)』などの諸本を引用した後、自説を述べています。安岡は、白鳥塚が能褒野墓だとしますが、日本武尊が葬られた後に白鳥となって飛び立ったことから、改葬されたと考えています。最初の埋葬地が二子塚、改葬地が白鳥塚だと述べます。
 また、丁子塚は、天正12年(1584)7月の峯城(みねじょう)の戦いで亡くなった武将の埋葬地であると述べています。なお、その他にも、記紀それぞれに登場する日本武尊が白鳥となって飛んでいった、河内国志幾(しき)、倭国琴弾原(ことびきはら)、河内国旧市邑(ふるいちのむら)の場所についても考察しています。
勢陽五鈴遺響 鈴鹿郡
勢陽五鈴遺響 鈴鹿郡
勢陽五鈴遺響 鈴鹿郡
勢陽五鈴遺響 鈴鹿郡
勢陽五鈴遺響 鈴鹿郡

 ②武備塚(鈴鹿市長澤町) 

武備塚[遺跡名:武備塚1号墳](鈴鹿市長澤町,長瀬神社社殿後方)
武備塚[遺跡名:武備塚1号墳](鈴鹿市長澤町,長瀬神社社殿後方)


26 奉納伊勢国能褒野日本武尊神陵請華篇
   明和6年(1769) 本居宣長記念館
 建部綾足(たけべのあやたり)の著作。建部は、片歌(かたうた)を唱導し特に日本武尊を尊び、武備神社(たけびじんじゃ)が「倭建尊(やまとたけのみこと)のみささき」であると考えました。そこで、社の前に歌碑を建立したいと述べます。
 本書は明和6年の作であり、現在も長瀬神社(前・武備神社)境内に残る歌碑(車塚)が建立されたのは翌7年のことです。

車塚(長瀬神社境内)(鈴鹿市長澤町)
車塚(長瀬神社境内)(鈴鹿市長澤町)


27 〈三重県指定文化財〉伊勢国鈴鹿郡第六大区四之小区長沢村武備御墓
   明治時代前期 三重県
 明治時代の武備塚の絵図。貼紙で武備塚とその兆域(ちょういき)(墓の区域)、車塚の大きさを記しています。


28 武備神社記
   明治時代 田上家
 日本武尊を主祭神とする武備神社(長瀬神社に合祀)の縁起。なかでも、景行天皇53年秋8月の記事として、景行天皇による日本武尊平定地の巡幸を記したうえで、能褒野を実検した天皇が、さらに高く大きくし、天皇陵と同様にし、前に神社を設けよ、と命じたことを記すのは興味深い部分です。高く大きくした結果、「山陵高三丈二尺、周遶(めぐり)三十丈余」が能褒野陵の大きさとなったと記録しています。


29 〈亀山市指定文化財〉半田写本九々五集 巻第一・巻第六中
   元禄15年(1702) 亀山市歴史博物館
 亀山領内の大庄屋、打田権四郎昌克(まさかつ)が領内86か村のことがらについてまとめた記録。巻第一の城地・年譜部には、武部墓の項に、能褒野の記述があります。所在地は長沢村北鞠野(まりがの)、大きさは「高二丈許、周廻二十五丈余」と記録します。巻第六中の古新高・所務部には、鈴鹿郡長沢村の項に、同じく武部墓の記述があり、「高サ三間、廻リ四拾壱間」と大きさを記し、ここが能褒野墓であり、日本武尊の葬祭が行われた地であるとします。
 のちには、亀山城主板倉家・石川家による武備塚整備が行われました。

半田写本九々五集 巻第一 半田写本九々五集 巻第一 半田写本九々五集 巻第六中
半田写本九々五集 巻第一
半田写本九々五集 巻第一
半田写本九々五集 巻第六中

 ③二子塚(鈴鹿市長澤町) 

二子塚[遺跡名:双児塚1号墳](鈴鹿市長澤町)
二子塚[遺跡名:双児塚1号墳](鈴鹿市長澤町)


30 取調書(三重県鈴鹿郡深伊沢村大字長沢二児塚)
   明治28年(1895) 田上家
 明治28年5月28日に長瀬神社神職の田上䦭太(たがみこうた)によって提出された二児塚を日本武尊墓とする意見書。
 明治時代初めに、羽田収蔵と先代の田上陽綱(たがみあきつな)により二児塚説を上申したところ、度会県学校教授の八羽石男が賛同し、亀山藩の大参事近藤幸殖(こんどうさちたね)からの賛助もあったという亀山藩による整備の経緯を記すことは注目されます。
 巻末の「二児塚全景見取図」には、参道があるため、明治3年の亀山藩整備後の姿とみられます。


31 二子塚整備図
   明治3年(1870) 亀山市歴史博物館
 亀山藩知事石川成之(いしかわなりゆき)は、亀山藩独自の政策として日本武尊墓の整備を推進します。本図は、明治3年7月、度会県管下の学校教授、八羽石男の説により、二子塚を整備したことを神祇官に伝える文書(出品番号32)に添付された絵図面の控とみられます。整備では、新たな道の敷設、従前道の拡幅、塚周囲への竹やらいの設置を行っています。
 また、絵図によれば、整備は現在の双児塚古墳群のうち1基のみを対象としており、双児塚1号墳を能褒野墓と考えたようです。
二子塚整備図


32 日本武尊白鳥陵実検につき報告書
   明治3年(1870) 亀山市歴史博物館
 明治3年7月、度会県管下の学校教授、八羽石男の説により、二子塚を整備したことを神祇官に伝える文書の控です。
日本武尊白鳥陵実検につき報告書
日本武尊白鳥陵実検につき報告書
日本武尊白鳥陵実検につき報告書
日本武尊白鳥陵実検につき報告書
日本武尊白鳥陵実検につき報告書
日本武尊白鳥陵実検につき報告書


33 〈三重県指定文化財〉伊勢国鈴鹿郡能褒野倭建命御墓略画図
   明治12年(1879) 三重県
 亀山藩による整備後の二子塚のようすが描かれています。塚の周囲には、明治3年に設けられた竹やらいが廻っています。
 また、明治3年の「二子塚整備図」(出品番号31)と同様、延喜式に基づくかのように、圓満寺持・真福寺持・深廣寺持の各々に「守戸(しゅこ)(えん)」が設定されています。

 決定前の能褒野王塚古墳 

 丁子塚(亀山市田村町) 

丁子塚[遺跡名:能褒野王塚古墳](亀山市田村町)
丁子塚[遺跡名:能褒野王塚古墳](亀山市田村町)


34 古事記伝草稿 巻二十八
   寛政元年(1789) 本居宣長記念館
 寛政元年、本居宣長は60歳のとき、『古事記伝』刊行の尽力者に会うため名古屋へ向かいました。その帰路、鈴鹿郡の各所を探索しており、そのひとつが能煩野(のぼの)でした。本稿は、宣長自身による能煩野探索の成果です。
 宣長は、武備塚・丸山(白鳥塚)・二子塚と丁子塚に足を運んでいます。丁子塚は、能褒野王塚古墳のことですが、実見した宣長は、前方部の存在と周辺の古墳群を確認し、実際に古墳を見ることはできなかったものの、陵墓の形態であることを認めています。ただし、4か所のいずれも能煩野と決しがたい、との結論となっています。

 能褒野墓の決定 ―明治9年― 

 ①白鳥塚(鈴鹿市石薬師町) 


35 竃山(かまやま)能褒野両墓処分方之儀ニ付伺(『太政官 公文録』明治9年第47巻)
   明治9年(1876) 国立公文書館デジタルアーカイブ(請求番号:公01775100)
   (https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000108871)
 明治8年(1875)12月5日、教部大輔宍戸璣(ししどたまき)から太政大臣三条実美(さんじょうさねとみ)宛てに白鳥塚が能褒野であることから、墓掌丁を設置したい旨の伺が提出されます。伺に対し、翌9年1月22日に、そのとおりにするよう達がありました。
 この達があった時点で、白鳥塚が、能褒野墓であるという認識ができあがっていたのであろうと考えられます。
竃山能褒野両墓処分方之儀ニ付伺
竃山能褒野両墓処分方之儀ニ付伺


36 能褒野図(「竃山能褒野両墓処分ノ儀ニ付伺」『太政官 公文録』明治9年第47巻)
   明治9年(1876) 国立公文書館デジタルアーカイブ(請求番号:公01775100)
   (https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000108871)
 「竃山能褒野両墓処分方之儀ニ付伺」(出品番号35)の明治8年12月5日付伺に、教部省官員が巡回検査を行い、勘註(かんちゅう)と絵図面を作成したことが記されています。本絵図はその控とみられます。
 絵図では、2つの山が描かれ、手前が日本武尊の笠を納めたという御笠殿、奥が御墓とされています。明治時代初期の白鳥塚は、小山のような姿で大きな松が1本生えていたようです。
能褒野図


37 〈三重県指定文化財〉日本武尊御墓反別六畝九分但周囲百間直高四間
   明治9年(1876) 三重県
 明治9年1月22日、白鳥塚が初めに日本武尊御墓と決定されました。そこで、同年2月14日に白鳥塚を測量、翌15日に社寺調査掛へ提出された報告の控とみられます。
 絵図によれば、白鳥塚は野地と墓域からなり、墓域の面積は反別2反6畝9分、鈴鹿郡第六大区三小区の石薬師村・高宮村・上田村・上野村の入会地(いりあいち)でした。


38 日本武尊墓白鳥塚決定文書(三重県史稿 政治部 祭典(明治5-12年))
   明治9年(1876) 国立公文書館デジタルアーカイブ(請求番号:府県史料三重)
   (https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M2007041211403951154)
 明治9年(1876)1月22日、教部省により白鳥塚が「日本武尊御墓」として決定されたことが記録されています。
日本武尊墓白鳥塚決定文書

 能褒野墓の決定―明治12年― 

 ②丁子塚(亀山市田村町) 

丁子塚[遺跡名:能褒野王塚古墳](亀山市田村町)
丁子塚[遺跡名:能褒野王塚古墳](亀山市田村町)


39 能褒野墓実検勘註
   明治6年(1873)・10年(1877) 宮内庁宮内公文書館
 明治10年12月、内務省六等属の大澤清臣(おおさわすがおみ)によって記された、新たに名越村の「王墓」を候補地とする旨の勘註の写しとみられます。大澤の勘註にあたっては、同年3月に、何者かからの建議を受けた教部省からの指示を受け、第六大区第二小区と田村の戸長と用掛等からの古墳に関する調査結果を添えた上申書を参考にしたとみられます。大澤は勘註にあたり、丁子塚が能褒野墓である理由として、①前方後円墳で当時の土壺が露出すること、②域外に陪冢(ばいちょう)(臣下の墓,大型古墳を主墳とした場合の近接する小型古墳)が散在すること、③塚の所在地の字名「女カ坂(おんながさか)」が『古事記』の内容に合致すること、④南を流れる御贄川(おにえがわ)が『寛平熱田縁起』に合致すること(現在、墓の南には安楽川、西には御幣川(おんべがわ)が流れている。)、⑤塚の所在する名越村が古代の長瀬郷域内であることは、『寛平熱田縁起』にある「能知瀬(のちせ)」が転訛(てんか)して「長瀬」となったこと(出品番号40)、の5点をあげています。
 あわせて、白鳥塚・二子塚が能褒野墓ではない理由も述べ、「王墓」(丁子塚)が能褒野墓で異論なし、とまとめています。


40 参考熱田大神縁起
   江戸時代後期 伊藤家
 「能褒野墓実検勘註」(出品番号39)で、大澤清臣が、白鳥塚から丁子塚へと能褒野墓を改定すべきとした根拠のひとつです。
 すなわち、塚の所在地である長瀬郷が、「能知瀬」の転訛であることを記しています。


41 〈三重県指定文化財〉丁子塚改定に付実測絵図面添付の上伺うべき旨達書(日本武尊御墓修繕書類)
   明治12年(1879) 三重県
 明治12年10月31日に宮内卿徳大寺実則(さねつね)名で出された三重県宛の命令書の写。日本武尊能褒野墓は、白鳥塚に決定していたものの、詮議によって取り消しとなり、田村の名越(なごし)の丁子塚に改定されたため、兆域を確認し実測、絵図面を提出するよう求めています。大澤清臣による明治10年末の勘註(出品番号39)から約2年後、丁子塚を能褒野墓と決定したことがうかがえます。


42 陵墓録
   明治14年(1881) 国立公文書館デジタルアーカイブ(請求番号:144-0207)
   (https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/F1000000000000050962)
 陵墓の場所と決定の年代を記録しています。日本武尊能褒野墓の項目には、「伊勢国鈴鹿郡田村之内名越村」にあるとされており、丁子塚に決定されたことが記されています。
 また、決定年代を朱書しており、「明治九年一月決定」、「同十二年十月改定」としていますので、明治9年に白鳥塚に決定、同12年に丁子塚に改定されたことが明確にされています。
陵墓録


43 陵墓一覧
   明治13年(1880) 本居宣長記念館
 宮内省御陵墓懸(ごりょうぼがかり)の編さんによる、明治13年4月以前に確定した陵墓の一覧。日本武尊能褒野墓は、明治12年に決定したことから、「景行皇子 日本武尊墓 鈴鹿郡名越村」と記されます。その他の日本武尊陵は、大和国と河内国に掲載されるものの、いまだ決定していなかったため、所在地は明記されていません。

(3)能褒野を描く

 日本武尊の墓である「能褒野陵」は、どのような姿をしていたのでしょうか。江戸時代後期、本居宣長の門人である坂倉茂樹は、実際に自らの目で能褒野を見て、その様を記録しています。そこからは、前方部と後円部様の形状が、まさに銚子(ちょうし)の形をしていたこと、後円部墳頂に穴があいていたことがわかります。坂倉の記録には、これらの特徴がよく描かれています。
 明治時代に入ると、周辺の小墳が描かれるようになり、丁子塚を主墳、小古墳群を陪冢とする陵墓としての意識を持ち出したことうかがえるようになります。
 そして、丁子塚は、明治12年(1879)10月に「日本武尊 能褒野墓」に決定します。そして、その後に進められた整備事業により、姿が変わっていきます。周溝の外側に土居を設けて古墳を守るとともに、陵墓としての姿を整えるため、遙拝所や札場などが設けられます。そして、周辺の小古墳群も正式に陪冢として記録に留め、「日本武尊 能褒野墓」という兆域の確定へと進んでいきました。

 能褒野墓決定前 ―明治12年以前― 


44 能褒野陵考
   天明8年(1788) 本居宣長記念館
 坂倉茂樹(さかくらしげき)(本居宣長の門人)の能褒野墓に関する覚書。坂倉は、野登(ののぼり)、白鳥塚、二子塚、御門(みかど)、武備塚の5か所の候補地について各々意見を述べ、二子塚こそ能褒野陵であると意見をまとめています。
 また、巻末には本文中では触れていない丁子塚の略図を掲出しています。本文をまとめた翌年、寛政元年(1789)3月に実見した際の覚かと思われます。略図からは、丁子塚が前方後円墳状であり、周囲は三十間ほど、壺のようなものが出土していることがみうけらます。


45 能煩野古墳図
   江戸時代後期 本居宣長記念館
 坂倉茂樹の能褒野墓に関する見解をまとめたもの。丁子塚、白鳥塚、武備塚について述べ、白鳥塚こそが日本武尊御陵であるとします。また、丁子塚と白鳥塚については、略図(立面図)を描いています。坂倉は、実際に丁子塚を見て図を描いたと述べており、南からの側面図には、塚とともに周囲を流れる川が描かれます。図中で注目されるのは、塚の各部の法量です。前方部長は24間、前方部高は11から12間、後円部高15から16間、後円部周1丁、後円部墳頂には穴があいており、深さが2丈8尺、周囲が24から25間であると記録しています。後円部の穴は、「能褒野陵考」(出品番号44)によれば、天明8年(1788)頃の長雨による土の流出であいたといいます。
 なお、坂倉は「能褒野陵考」で能褒野陵は二子塚だと述べましたが、本書では白鳥塚説に変更しています。天明4年(1784)に入門した本居宣長の白鳥塚説の影響があるのではないでしょうか。


46 九重雑誌 第七号
   明治7年(1874) 亀山市歴史博物館
 明治7年、本草学者(ほんぞうがくしゃ)鎌井松石(かまいしょうせき)によって編集された伊勢国の地誌。鎌井は、陵墓決定のため、明治6年に神祇省から能褒野と鞠ヶ野(まりがの)の古跡調査と巡回を命じられています。本図と記録内容はその折の調査を元にしたものと考えられます。
 古墳の呼称は、「名越ノ大塚」や「銚子塚」であったとし、周辺には大小14の塚があったことを記録ならびに図化しています。丁子塚は、最も大きな塚として表現され、頂上には窪みがあったことも記録しています。
九重雑誌 第七号
九重雑誌 第七号


47 〈三重県指定文化財〉王塚立形之図式
   明治時代前期 三重県
 丁子塚(ちょうしづか)を南から見た立面図。塚の高さは4間半、穴の深さは2間半で、後円部墳頂には穴があいています。


48 〈三重県指定文化財〉田村之内名越里字女ケ阪
   明治時代前期 三重県
 丁子塚の平面図。丁子塚の法量は、墳長は50間、前方部幅20間、後円部径30間と記録します。本図には、丁子塚のみならず、周辺の小墳も14基描かれています。
 なお、絵図に三重県第六大区二之小区伊勢国鈴鹿郡田村の藤田治郎作、古田又平とあることから、大区小区制施行期間中の明治12年(1879)2月までに作成されたものとみられます。

 能褒野墓決定後 ―明治12年以後― 


49 日本武尊能褒野神社新築ノ図
   明治時代 個人
 明治17年(1884)に「能褒野神社」と神号が決定、翌18年に神社の竣工祭典が行われ、同19年の伊勢新聞記事に本図に合致する境内の様子がうかがえることから、明治18年から19年頃に作成された図と考えられます。
 左上の能褒野王塚古墳に注目すると、すでに遙拝所とみられる鳥居と木柵が設置され、古墳の周囲は石垣で囲まれています。また、周辺には9つの小丘があり、陪冢と意識して描いたのではないかとみられます。


50 〈三重県指定文化財〉日本武尊御陵
   明治20年(1887) 三重県
 明治20年2月2日に調査した能褒野王塚古墳の立面図。古墳各部と遙拝所の鳥居の法量を記しています。日本武尊墓としての整備によって、遙拝所、札場、土居が設けられました。また、古墳の北側・東側に11基の陪冢を描いています。


51 〈三重県指定文化財〉日本武尊御陵
   明治20年(1887) 三重県
 同じく明治20年2月2日に調査した能褒野王塚古墳の1200分の1の平面図。古墳各部、周溝の外の土居、遙拝所の測量結果が記されています。 本図を考古学的見地から注目すれば、古墳は前方部2段、後円部3段築成の古墳と考えられています。陪冢は11基を数え、古墳の北と東に緑色で円墳が表されています。加えて、古墳の西には彩色のない5つの印があります。現在、能褒野12〜16号墳とするものを描いていると考えられます。

(4)能褒野王塚古墳

 明治12年(1879)、田村の名越(なごし)丁子塚(ちょうしづか)が「日本武尊 能褒野墓」と決定されました。そのため、この古墳は近代以降「御墓」「御陵」と呼び慣らわされてきました。太平洋戦争後に遺跡としての名称が付加されたことから、ふたつの名前があります。陵墓名である「日本武尊 能褒野墓」と遺跡名である「能褒野王塚古墳」です。
 能褒野王塚古墳は、北勢地域最大の前方後円墳です。検証資料が極めて少ないものの、佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳(日葉酢媛(ひばすひめの)(みこと)陵・奈良県奈良市)など奈良盆地北東部の前方後円墳と墳形が相似形であること、採集された埴輪の特徴から古墳時代前期末から中期初頭、4世紀後半頃に築造されたものと考えられます。
 また、周辺には小古墳群が確認されています。能褒野墓に付帯する陪冢が16基、遺跡としては発掘調査により確認された古墳が5基あります。計21基の古墳は、能褒野王塚古墳とあわせて「能褒野古墳群」として認識されています。周辺の小古墳群は、低墳丘墳を含む円墳・方墳から構成され、出土した須恵器から後期古墳と位置付けられます。現在のところ、能褒野王塚古墳と周辺の小古墳の系譜的な関連性を見出すことはできていません。


52 埴輪片(日本武尊 能褒野墓)
   古墳時代前期末〜中期初頭 宮内庁書陵部(『出土品展示目録 埴輪Ⅴ』より転載)
 日本武尊 能褒野墓において昭和34年(1959)・平成14年(2002)に採集した埴輪片。種類は、円筒埴輪(鰭付含む)、家形埴輪、形象埴輪(形不明)です。特に、円筒埴輪は、側面に(ひれ)が取り付くこと、突帯(とったい)貼付技法として断面長方形の棒状工具による刺突痕および突帯の上下に沈線(ちんせん)がみられること、突帯断面がM字形であるという特徴があります。
 また、類似する埴輪は、近在する名越(なごし)古墳(亀山市田村町)でも採取されています。さらには、赤土山(あかつちやま)古墳(奈良県天理市)などからも出土しており、奈良盆地北東部・東麓部の古墳をはじめとする畿内域との関連が考えられます。
円筒埴輪(日本武尊 能褒野墓) 突帯および突帯剥離箇所(日本武尊 能褒野墓) 家形埴輪(上)・不明形象埴輪(下)(日本武尊 能褒野墓)
円筒埴輪(日本武尊 能褒野墓)
突帯および突帯剥離箇所(日本武尊 能褒野墓)
家形埴輪(上)・不明形象埴輪(下)(日本武尊 能褒野墓)


53 須恵器(日本武尊 能褒野墓域内陪冢り号)
   古墳時代後期 宮内庁書陵部(『書陵部紀要』第66号〔陵墓編〕より転載)
 平成25年(2013)に実施された調査によって、日本武尊 能褒野墓域内陪冢り号(能褒野11号墳)横穴式石室床面から出土した須恵器。器種は、坏蓋(つきふた)、坏身、壺蓋、短頸壺(たんけいこ)です。6世紀半ばから7世紀初めまでのものとみられ、域内陪冢り号の築造あるいは追葬をこの時期とみることができます。能褒野墓域内陪冢り号の横穴式石室の玄室(げんしつ)は、幅1.4m、長さ3.7m以上の隅丸長方形の平面を持ち、丸味を帯びた川原石を積み上げた東海地方の特色を示しています。
須恵器坏蓋(日本武尊 能褒野墓域内陪冢り号) 須恵器坏身(日本武尊 能褒野墓域内陪冢り号) 須恵器坏蓋(日本武尊 能褒野墓域内陪冢り号)
須恵器坏蓋(日本武尊 能褒野墓域内陪冢り号)
須恵器坏身(日本武尊 能褒野墓域内陪冢り号)
須恵器坏蓋(日本武尊 能褒野墓域内陪冢り号)
須恵器坏身(日本武尊 能褒野墓域内陪冢り号) 須恵器蓋(日本武尊 能褒野墓域内陪冢り号) 須恵器短頸壺(日本武尊 能褒野墓域内陪冢り号)
須恵器坏身(日本武尊 能褒野墓域内陪冢り号)
須恵器蓋(日本武尊 能褒野墓域内陪冢り号)
須恵器短頸壺(日本武尊 能褒野墓域内陪冢り号)


54 日本武尊 能褒野墓 全体図
   宮内庁書陵部(『書陵部紀要』第66号〔陵墓編〕より転載)
 平成25年(2013)に25cm間隔の等高線で測量が行われました。その結果、少なくとも後円部に平坦面があり、2段もしくは3段築成であると考えられます。
日本武尊 能褒野墓 全体図


55 日本武尊 能褒野墓 トレンチ配置図
   宮内庁書陵部(『書陵部紀要』第66号〔陵墓編〕より転載)
 宮内庁書陵部による平成25年調査時のトレンチ配置図です。須恵器(出品番号53)は、日本武尊 能褒野墓の北にある域内陪冢り号の第7トレンチから出土しました。
 また、日本武尊 能褒野墓の周囲には、付帯する陪冢が16基あります。平成25年には、陪冢に多くのトレンチが設定され、調査されました。
日本武尊 能褒野墓 トレンチ配置図


56 須恵器(能褒野古墳群)
   古墳時代後期 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 平成22年(2010)に宅地造成にともない実施した発掘調査によって、能褒野14号墳(飛地を号)周溝と16号墳(飛地よ号)周溝から出土した須恵器。沢古墳群(亀山市山下町)や柴戸古墳群(亀山市栄町)など、市域の後期古墳には周溝の中に埋葬を行っている例がありますので、この遺物も周溝内埋葬の副葬品と考えることができます。いずれも6世紀半ばの製品であるとみられ、能褒野古墳群の後期古墳の築造年代が同時期であることがうかがえます。
須恵器(能褒野古墳群)


57 埴輪片(能褒野王塚古墳)
   古墳時代前期末〜中期初頭 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 能褒野王塚古墳で採集されたという埴輪片ですが、採集された時期は不明です。円筒埴輪口縁部のほか、線刻が施された器財(きざい)埴輪の破片とみられるものも含まれます。口縁部は外縁に膨らみを持つものと直線的なものの2種類があります。断面がM字形を呈する突帯の形状や表面調整は宮内庁書陵部所蔵資料(出品番号52)と共通しています。
埴輪片(能褒野王塚古墳)


58 鰭付朝顔形円筒埴輪(能褒野王塚古墳)
   古墳時代前期末〜中期初頭 能褒野神社(亀山市歴史博物館寄託)
 具体的な採集時期・場所は不明ですが、能褒野王塚古墳からの採集資料として、器財埴輪円筒部とともに長らく亀山高等学校において保管されていました。壺部口縁部、(ひれ)、底部を欠失するものの、残存高93.5cm、壺部最大径32.7cm、円筒部最大径33.4cmで、朝顔形円筒埴輪としては、県下最大、東日本(畿内より東)でも傑出した大きさの埴輪です。透孔(すかしあな)は円形で、突帯は外面調整後に貼付けられ、位置設定のための沈線や方形のくぼみがみられ、鰭は貼付けのために体部に縦方向の刻み目が施されています。また、口縁部内側と外面全体に朱の付着が残ることから、全体が赤く彩られていたと思われます。
朝顔形円筒埴輪(能褒野王塚古墳)
鰭付朝顔形円筒埴輪復元図


59 能褒野王塚古墳模型(150分の1)
   平成6年(1994) 亀山市歴史博物館
 能褒野王塚古墳の150分の1の復元模型。平成6年の博物館開館時に作成しました。埴輪列は、鰭付朝顔形(ひれつきあさがおがた)円筒埴輪と円筒埴輪で構成し、存在が確認されている器財埴輪があるものの、位置や配列が不明なため、復元に加えていません。
 また、平成14年(2002)、宮内庁書陵部が埴輪片を採集しています(出品番号52)。採集場所が、後円部の墳頂部、テラス面(平坦面)にあたるとみられることから、そこに埴輪が樹立されていた可能性が強まりました。
 能褒野王塚古墳の詳細な姿は、宮内庁書陵部が平成25年に実施した25cm間隔の等高線による測量調査によって明らかになってきました。大きさは、全長90m、後円部径54m、前方部長40m、前方部幅40m、後円部高8.5m、前方部高5.5m。後円部に比高差を持つ平坦面が2か所確認されたことから、墳丘は2段もしくは3段築成であると考えられます。
能褒野王塚古墳模型(150分の1)

   


凡例  1.日本書紀の編さんと解釈  2.日本武尊と弟橘媛の物語  3.日本武尊の死 −「能褒野」を考える− 
4.日本武尊と現代 −社会とのつながり−  協力者・参考文献・出品一覧

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