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凡例  1.日本書紀の編さんと解釈  2.日本武尊と弟橘媛の物語  3.日本武尊の死 −「能褒野」を考える− 
4.日本武尊と現代 −社会とのつながり−  協力者・参考文献・出品一覧

第2章 日本武尊と弟橘媛の物語

 日本武尊(やまとたけるのみこと)の物語は、『日本書紀』と『古事記』に記されています。和銅5年(712)に完成した『古事記』、養老4年(720)に完成した『日本書紀』は、ともに天武天皇の命によって編さんが始まりました。二書の大きな差は、その内容にあり、『日本書紀』は国の歴史をまとめたもの、『古事記』は天皇家の歴史をまとめたもの、といえます。日本武尊についても、名前の漢字表記が『日本書紀』では「日本武尊」、『古事記』では「倭建命」と異なることや、物語の内容にも色々な差異が生じています。
 『日本書紀』が語る日本武尊は、父である景行天皇を助け、天皇に従わない西の熊襲(くまそ)、東の蝦夷(えみし)と戦いながら、全国を王権の権力下へとまとめあげていく、勇ましい武人として描かれています。その一生を見ていくと、常に強く勇ましい武人としての姿を見せているわけではなく、愛する女性とのやりとりも描かれています。
 そのひとりが、妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)です。『日本書紀』の中の彼女は、自らの命をかけた入水によって日本武尊を助けるという馳水(はしるみず)の場面が主な登場シーンです。わずかな記事ではあるものの、鮮烈な印象を残しています。そこに、彼女の自己犠牲のような無償の愛を感じるからかもしれません。『古事記』の同場面には、海神との婚姻を想起させるような、より呪術性の強い表現がとられています。『古事記』には火遠理命(ほおりのみこと)が海神の娘と婚姻を結ぶ場面との類似表現がみられ、弟橘媛の入水場面に影響を与えているようにみられます。
 日本武尊に視点を戻すと、『日本書紀』で語られる日本武尊の印象は、国を愛し、父である景行天皇を支え、共に国作りを進める者として描かれているように思われます。彼の最期は、曠野(あらの)である能褒野(のぼの)に倒れ臥し、景行天皇への思いを語るものです。葬られた後に(みささぎ)から白鳥(しらとり)と化して飛び立つ場面は、非常に印象的です。日本武尊と弟橘媛。ふたりの愛と死の物語は、王権の下、国を形作ろうとする一途な想いがあったように感じられます。

(1)日本書紀が語る日本武尊

 日本武尊の物語は、『日本書紀』そして『古事記』で語られます。ともに父親である景行(けいこう)天皇の項目の中に登場しています。『日本書紀』に登場する日本武尊は、父の景行天皇から期待される力強い武人のイメージです。
 西の国から東の国へと、従わない者たちと戦い続けた日本武尊。その戦いの中には、様々な日本武尊の姿が垣間見られます。戦略を練る知的な面、軽口で神を怒らせる軽率な面、また女性を愛する面も見られます。そして、特徴的な死の場面。死を悟った日本武尊は、ふるさとへ帰ることを願いながら能褒野で亡くなるものの、葬られた後には、白鳥に姿を変えて飛び立ってしまいます。
 力強く、そして戦いに勝利していく強い男性という側面が強いものの、最期の場面からは、彼の内面はどこまでも「国」を形作ろうとする父の景行天皇を支えたい、さらには父への強い思慕が感じられるように思われます。喜怒哀楽にもたとえられるような多様な姿を見せる日本武尊は、ただ強いだけではないとても魅力的な人物として描き出されているように感じられます。

 ①誕生〜青年期 

 景行天皇の皇子として誕生します。母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)。双子として生まれ、兄は大碓皇子(おおうすのみこ)、弟は小碓尊(おうすのみこと)と呼ばれました。この弟がのちの日本武尊です。双子の名前の由来は、誕生の際に、父である天皇が(うす)に向かって叫んだためだと言われています。幼くして雄々しく、成長しては身長が高く力強い青年となりました。

日本書紀・古事記による日本武尊物語の異同(誕生〜青年期) 日本武尊関係系図(『日本書紀』) 倭建命関係系図(『古事記』)
日本書紀・古事記による日本武尊物語の異同(誕生〜青年期)
日本武尊関係系図(『日本書紀』)
倭建命関係系図(『古事記』)

 ②熊襲との戦い 

 景行天皇27年、16歳となった日本武尊は、反乱を起こした熊襲との戦いに向かいます。現地で敵情視察した日本武尊は、熊襲の梟帥(たける)(集団の首領)である川上梟帥(かわかみたける)が宴を開くことを知りました。そこで、相手を油断させて討ち取る作戦を考えます。女性の姿となって宴に参加し、酒も入り油断した川上梟帥を隠し持った剣で討ち取ったのです。

日本書紀・古事記による日本武尊物語の異同(熊襲との戦い)
日本書紀・古事記による日本武尊物語の異同(熊襲との戦い)


8 著色絵入祭礼御神燈提灯
   大正2年(1913) 亀山市歴史博物館
 祭礼の際、かつての西町六番町で掲げられていた一張。熊襲との戦いに出向いた日本武尊が、その梟帥(集団の首領)である川上梟帥と戦った場面を描いています。『日本書紀』には、髪を下ろし童女の姿となって川上梟帥を油断させ、剣で胸を刺した、とあります。また、『古事記』には、叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)の衣と()を身につけ、相手の衣の(えり)をつかんで剣で胸を刺し通した、とあります。
 本図は、裳を身につけ、相手の衣の衿をつかんでいる様を描いていることから、『古事記』に基づいて描かれたものとみられます。
著色絵入祭礼御神燈提灯

 ③蝦夷との戦い 

 景行天皇40年、日本武尊は蝦夷との戦いへ向かいます。実際の戦いまでに、伊勢神宮、焼津(やきつ)馳水(はしるみず)といくつもの場面が登場します。出発前には、伊勢神宮に奉仕する叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)に挨拶し、(つるぎ)を授かります。この剣は、焼津での戦いで使われ、後に「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と呼ばれるものです。相模(さがみ)国から上総(かずさ)国へと海を渡る際には、荒れた海を鎮めるために飛び込んで日本武尊を救った弟橘媛も登場します。弟橘媛の入水は、日本武尊の軽率な発言に起因しており、自らの失態によって弟橘媛を失うことになりました。そして向かった先では、実際に戦わずして蝦夷を従えたのです。
 軽率な面もある一方で、蝦夷にはとても勝てないと思わせる威光を感じさせています。さらに、帰途では弟橘媛を失った後悔をにじませます。まさに日本武尊の多様な側面を語る場面です。いくつもの名場面があり、日本武尊の物語を象徴するものといえます。

日本書紀・古事記による日本武尊物語の異同(蝦夷との戦い) 焼津神社(静岡県焼津市) 走水(神奈川県横須賀市)
日本書紀・古事記による日本武尊物語の異同(蝦夷との戦い)
焼津神社(静岡県焼津市)
走水(神奈川県横須賀市)


9 倭建命遺製燧袋・燧之形図
   袋:時代不明 図:江戸時代後期  本居宣長記念館
 日本武尊が蝦夷との戦いに向かう際、焼津で謀略に打ち勝つ場面で登場します。『日本書紀』、『古事記』のいずれでも、倭姫命から授かった剣を使い難を逃れます。『日本書紀』では、剣で草を薙ぎ払って(ひうち)で火をつけます。『古事記』では、剣で草を刈り払い、(ふくろ)に入っていた火打で迎え火をつけます。
 本資料は、その燧の入っていた袋と伝えられるもの。蔵書家として著名な村井敬義家蔵の写しとする同封の図によれば、燧と袋は紐で一体化しており、紐で出し入れできる仕様です。図示された燧は、厚さ九厘ほどの鉄製で両面に山形の刻みをもつ形状であることから、火打金(ひうちがね)のことと考えられます。別の一枚の文書には、多田満泰(義俊)の「宮川日記」による図として、鉄製の火打金と紐で結ばれた火打石を描いています。袋のみを伝えるもので、燧の形状は不明ですが、江戸時代に考証された燧とはこのような形であったとみられます。

 ④死への道 

 蝦夷を従え、帰路についた日本武尊は、尾張に滞在しました。そのとき、五十葺山(いぶきやま)の荒ぶる神の話を聞き山へ向かいます。そこで、神の怒りにふれてしまうのです。弱った日本武尊は(やまと)への帰路を進むものの、能褒野(のぼの)で力尽きました。倒れ臥したその場所は曠野(あらの)。広々とした原野でした。
 嘆き悲しんだ父親の景行天皇によって墓に葬られたものの、白鳥(しらとり)に姿を変えて飛び立ってしまうのです。
 何とかふるさとへ、父のもとへと帰ろうとする姿には、国作りに尽くした勇猛な武人というよりも、生まれた地で生涯を終えたい、父に会いたいという最後の欲求が表れているように思えます。

日本書紀・古事記による日本武尊物語の異同(死への道) 伊吹山(滋賀県から)(滋賀県米原市,岐阜県揖斐郡揖斐川町) 居醒(いさめ)の清水(滋賀県米原市醒井)
日本書紀・古事記による日本武尊物語の異同(死への道)
伊吹山(滋賀県から)(滋賀県米原市,岐阜県揖斐郡揖斐川町)
居醒の清水(滋賀県米原市醒井)
玉倉部(たまくらべ)の清水(岐阜県不破郡関ケ原町)
玉倉部の清水(岐阜県不破郡関ケ原町)

 尾津 候補地 

日本武尊尾津前(おづさき)御遺跡(おんいせき)(三重県桑名市多度町) 尾津神社(三重県桑名市多度町戸津) 尾津神社(三重県桑名市多度町小山)
日本武尊尾津前御遺跡(三重県桑名市多度町)
尾津神社(三重県桑名市多度町戸津)
尾津神社(三重県桑名市多度町小山)

 白鳥陵 

日本武尊 能褒野墓[能褒野王塚古墳](三重県亀山市田村町) 日本武尊白鳥陵(畝傍)[日本武尊琴引原白鳥陵](奈良県御所市) 日本武尊白鳥陵(古市)[軽里大塚古墳](大阪府羽曳野市)
日本武尊 能褒野墓[能褒野王塚古墳](三重県亀山市田村町)
日本武尊白鳥陵(畝傍)[日本武尊琴引原白鳥陵](奈良県御所市)
日本武尊白鳥陵(古市)[軽里大塚古墳](大阪府羽曳野市)

 関連地に残る日本武尊像 

焼津神社(静岡県焼津市) きみさらずタワー(千葉県木更津市太田山公園) きみさらず大橋たもと(千葉県木更津市大寺)
焼津神社(静岡県焼津市)
きみさらずタワー(千葉県木更津市太田山公園)
きみさらず大橋たもと(千葉県木更津市大寺)
伊吹山山頂(滋賀県米原市) 清水滋賀県米原市醒井
伊吹山山頂(滋賀県米原市)
居醒の清水(滋賀県米原市醒井)
記紀におけるヤマトタケル行程地
記紀におけるヤマトタケル行程地

(2)妃 弟橘媛の愛

 日本武尊が、蝦夷との戦いに向かう途次、相模国から上総国へと海を渡ります。このとき、日本武尊は、飛んで渡ってしまえそうだ、と軽口をいってしまいました。そのため、神の怒りをかったのか、海が荒れて渡れなくなります。
 この場面で登場するのが、弟橘媛。荒れた海をしずめるため、海へと飛び込むのです。彼女は、我が身があなたの命の代わりとなれるのならば、と飛び込みました。命をかけて日本武尊を救う、無償の愛を感じる印象的な場面です。
 『古事記』では、「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも(相模の小野に燃える火の、その燃え広がる炎の中に立って、私のことを思って呼びかけてくださったあなた様よ。ああ。)」と焼遺(やきつ)(焼津)でともに火中に立った時の思い出を詠み、海中へと向かいます。日本武尊との思い出を胸に、自身を賭して彼の戦いを支える姿が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
 なお、『日本書紀』では、弟橘媛は穂積氏忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘で、日本武尊との間に稚武彦王(わかたけひこのみこ)を生んだとも記録されています。この穂積忍山宿禰が神官を務めたというのが、忍山神社(亀山市野村四丁目)とされています。


10 忍山神社記
   江戸時代後期 個人
 忍山神社88代神主である穂積清像によって記されたものと思われます。65代倶春による「忍山神社記」、81代吉倉による倶春の後の歴史の後に、88代清像による忍山神社記が続く構成です。
 忍山神宮の創立は、垂仁(すいにん)天皇の時代に、倭姫命(やまとひめのみこと)を天照大神の御杖代(みつえしろ)として鎮座地を探す旅の途中、忍山に遷幸(せんこう)したことによります。神社記の終わりに、垂仁天皇の時代、鈴鹿国造(すずかのくにのみやつこ)大水口宿禰(おおみなくちのすくね)に忍山遷幸時の神宮を造営させ皇太神を祀った後、その子である忍山宿禰に忍山明神と神宮の神事を掌るよう勅裁があり、以後、その子孫である穂積朝臣(ほづみのあそん)が代々神職を務めてきたとあります。忍山神社の神職が、大水口宿禰、忍山宿禰、そして穂積朝臣へと引き継がれたことがまとめられています。

忍山神社(三重県亀山市野村四丁目) 忍山神社(三重県亀山市野村四丁目)・忍山大橋(三重県亀山市野村町)
忍山神社(三重県亀山市野村四丁目)
忍山神社(三重県亀山市野村四丁目)・忍山大橋(三重県亀山市野村町)

   


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