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凡例  1.日本書紀の編さんと解釈  2.日本武尊と弟橘媛の物語  3.日本武尊の死 −「能褒野」を考える− 
4.日本武尊と現代 −社会とのつながり−  協力者・参考文献・出品一覧

第1章 日本書紀の編さんと解釈

 『日本書紀』は、天皇の命によって編さんされた日本で最初の国の歴史書です。編さんの始まりは、天武天皇10年(681)3月。国の歴史として編さんされたことは、その書名にもあらわれています。国号「日本」を冠した「紀」、つまり天皇の歴史を一代ごとに記した歴史書、ということです。
 『日本書紀』は全三十巻で、神代、そして神武(じんむ)天皇から持統(じとう)天皇までの歴史を収載し、全文漢文で記述されます。その背景には、対外政策があったと考えられています。遣隋使、遣唐使を派遣する中で、国号の制定、国の歴史書編さんの必要性に迫られたことに起因するとみられます。
 編さんにあたっては、帝紀(ていき)旧辞(きゅうじ)を整理することから始め、編さん途次で十八氏族からの墓記を提出させたことがわかっており、基礎資料は、天皇家の歴史、氏族の歴史、説話や伝承でした。様々な資料を収集することにより、同内容についても異説が併存することとなりました。そこで、『日本書紀』はそれらを「一書(いっしょ)」として紹介する手法をとっています。
 開始から約40年を経た養老4年(720)、天武天皇の孫にあたる元正(げんしょう)天皇に奏上されました。奏上した編さん者の筆頭は、天武天皇の子である舎人(とねり)親王です。完成した『日本書紀』は、明確な記録がないため断定できませんが、翌5年に披露されたようです。平安時代に入ると、日本紀講書(にほんぎこうしょ)という『日本書紀』の講読が定期的に行われ、次第に宮廷儀式化していきます。講書の継続は、古代国家にとっての『日本書紀』の重要性をうかがわせます。こうした講書の成果は、注釈書としてまとめられました。注釈作業は、近世の国学者によって引き継がれていきます。国学者たちの注釈は、出典研究に力点が置かれ、語句解説に出典や自説・他説を紹介しながら、『日本書紀』を解釈するという形が主流です。こうした研究姿勢は、現在の『日本書紀』研究の礎となったといえます。
 また、現在の『日本書紀』は、編さん当初のものがそのまま伝わっているわけではありません。現在、私たちが目にすることができるものは、写本という形で残されたものを校訂したものです。現存する最も古い写本は、9世紀に書写されたものです。その後も書写され続け、現在、5点の国宝と7点の重要文化財に指定される『日本書紀』写本が残されています。多くの写本が作られたことは、後世の人々にとっても、『日本書紀』が重要な歴史書と認識されていたことの証左ともいえるのではないでしょうか。

(1)編さん

 『日本書紀』の編さんは、天武天皇10年(681)に天武天皇の命によって始まり、約40年後の養老4年(720)に完成し、元正天皇に奏上されました。
 その編さん過程は明らかではありませんが、12名の諸王・豪族を集めて帝紀・旧辞の整理を行ったことがその始まりと考えられます。編さんにあたっては、当初の帝紀・旧辞に加え、新たに十八氏族からの墓記の収集が行われました(『日本書紀』持統天皇5年(691)8月辛亥(13)条)。
 編さん者は、完成時にはその筆頭が舎人親王でした。天武天皇の第三皇子である舎人親王は、推進者たるべき人物であったといえます。一方、編さん人員について、具体的に明らかなのは、当初の12名のみです。しかし、40年もの歳月をかけた編さん事業であったことから、編さん途次で亡くなった人物もおり、人員の変化が想定されます。唯一明らかなのは、和銅7年(714)に新たに2名が加わったことです(『続日本紀』和銅7年2月戊戌(10)条)。
 完成した『日本書紀』は、紀三十巻と系図一巻からなっていました。しかし、現存するのは紀三十巻のみで、系図は伝わっていません。紀とは天皇の歴史を記載した部分のことで、まさに現在、『日本書紀』として目にしている歴代天皇ごとにまとめられた形式のことです。つまり、編さん当初から『日本書紀』は三十巻あり、現在も同じ巻数が伝えられていることになります。しかし、それは編さん当初のままではなく、様々な写本を校訂し整えられたものです。編さん当初から長く『日本書紀』が書き写されたことによって、三十巻の『日本書紀』が現代に伝えられているというわけです。


1 日本書紀 巻第二十九
   寛文9年(1669) 田上家
 『日本書紀』天武天皇10年(681)3月丙戌(17)条に、天武天皇が諸王・豪族を集め「帝紀及び上古の諸事を記し定め」させ、記録したとあります。これが、『日本書紀』編さんの始まりと考えられます。
 ここに登場する「帝紀及び上古の諸事」とは、いわゆる「帝紀」と「旧辞」のことで、帝紀は天皇ごとの記録、旧辞は説話や伝承を含む神話であろう、と考えられてきました。同時期の編さんである『古事記』の序文には、天武天皇が、諸家に伝わる「帝紀と本辞」がすでに真実と異なっていることから、稗田阿礼(ひえだのあれ)に「帝皇日継(すめろぎのひつぎ)先代旧辞(さきつよのふること)」とを()み習わせたと、その編さんの始まりを記録しており、やはり二書が基本となっています。二書の具体的な内容は不明ですが、『日本書紀』、『古事記』どちらも、7世紀に伝わっていた記録をもとに編さんが進められました。


2 続日本紀 巻第八
   明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
 『続日本紀(しょくにほんぎ)』養老4年(720)5月癸酉(21)条に、「一品舎人親王、勅を(うけたまわ)り、日本紀を修む。是に至りて功成りて奏上す。紀卅巻・系図一巻なり。」とあり、完成したことを報告しています。完成時には、歴史書部分が三十巻、さらに系図が一巻作られていました。現在、『日本書紀』は、巻一から巻三十までが伝わり、系図については現存していません。
 また、完成の報告では書名を「日本紀」と記しています。書名が「日本紀」であったか「日本書紀」であったか諸説あり、現在も結論をみていません。
続日本紀巻第8


3 日本書紀 巻第一
   寛文9年(1669) 田上家
 『日本書紀』は、天武天皇10年(681)から養老4年(720)まで、約40年の歳月をかけて編さんされました。冒頭に序文や上表文は付属せず、巻第一から始まります。巻第一は神代上と立項され、次巻の神代下とあわせて二巻をかけて神代について語っています。
 本書の多数の書き込みには、『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』や『日本書紀纂疏(にほんしょきさんそ)』などを参照したことがうかがえます。また内題下の朱印からは、本書が度会(わたらい)高彦の蔵書であったとみられます。度会は、『釈日本紀』の書写を享保5年(1720)に行った人物で、度会写本は、宮内庁図書寮文庫に残されています。

(2)講書

 『日本書紀』は、どのように読むのでしょうか。読み方を学ぶため、『日本書紀』を講読する「日本紀講書(にほんぎこうしょ)」が開講されました。まずは、完成の翌年である養老5年(721)に開講されたようです。しかし、養老度講書の開催については、記録が残されておらず開催の有無が論じられています。平安時代には、弘仁3年(812)、承和10年(843)、元慶3年(879)、延喜4年(904)、承平6年(936)、康保2年(965)の6度開催されました。数年かけた講書の後には、竟宴(きょうえん)が行われ、『日本書紀』にある神名・人名を歌題とした歌を詠みました。その竟宴和歌は、元慶6年、延喜6年、天慶6年の3度のものが残されています。
 講書の目的は、時代によって変容していると考えられます。完成翌年の講書は、天皇の命で編さんされた国の歴史書を披露するということでした。一方、平安時代になると次第に宮廷儀式化されてゆきます。定期的に『日本書紀』を講読することで、国家の歴史を共有することがめざされたのではないでしょうか。


4 日本後紀 巻第二十二
   明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
 『日本後紀(にほんこうき)』弘仁3年(812)6月戊子(2)条に、多人長(おおのひとなが)を講師とし、紀広浜(きのひろはま)安倍真勝(あべのまかつ)など十余人に対して「日本紀を読ましむ」とあります。これが、第二回の日本紀講書(にほんぎこうしょ)の記録です。
 講書の場所は、『日本書紀私記』「弘仁私記序」に「外記曹局(げきそうきょく)」で開催したとあります。外記曹局は、平安京内裏外郭門のひとつで、内裏の東にある建春門の東側に位置していました。
日本後紀巻第22


5 日本紀竟宴和歌
   安永8年(1779) 国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541674)
 日本紀講書が終了すると、竟宴(きょうえん)が行われました。竟宴では、『日本書紀』にある神名・人名を歌題として和歌が詠まれました。『日本紀竟宴和歌』は、元慶6年(882)、延喜6年(906)、天慶6年(943)に行われた竟宴和歌を収載したものです。
 冒頭には、奈良時代・平安時代の日本紀講書の年と講師、竟宴の年が記録されています。本書では、最初の講書は『日本書紀』編さん翌年の養老5年(721)、講師は太安麻呂(おおのやすまろ)とされています。
 竟宴和歌には、「日本武尊」も歌題とされました。延喜6年の竟宴で藤原有実(ふじわらのありざね)が詠んだもので、景行天皇が日本武尊を派遣して全国を平定したことを詠っています。
日本紀竟宴和歌
日本紀竟宴和歌

(3)解釈

 『日本書紀』の解釈は、講書によって進んだといえます。奈良時代・平安時代前期に行われた講書記録として、『日本書紀私記』が残ります。講書ごとの私記により内容は変わるものの、当時考えられていた訓読、解釈などが記されています。
 『日本書紀』全巻を解釈した注釈書に注目してみると、まずは、鎌倉時代に、卜部兼方(うらべかねかた)によって『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』が著されました。当時の『日本書紀』研究の集大成ともいえる書です。
 そして、江戸時代には、国学者によって注釈書が作られるようになります。その最たるものが、谷川士清(たにがわことすが)の『日本書紀通証(つうしょう)』と河村秀根(かわむらひでね)の『書紀集解(しょきしっかい)』です。いずれも、『日本書紀』の内容理解に欠かせない語句解説に力が入っています。それは、出典研究という形であらわされており、語句の出典を検証することから、本文の意味を考え、全容を把握しようと努める姿勢は、現在の研究の礎ともいえるものです。


6 日本書紀通証 一
   宝暦12年(1762) 亀山市歴史博物館
 伊勢津の国学者、谷川士清による『日本書紀』全巻の注釈書。35巻23冊。宝暦元年(1751)に完成し、同12年に刊行されました。谷川は、本居宣長などさまざまな学者と交流しながら本書を著しました。本書の特徴は、全文解説ではなく、語句解説の形をとっていることにあります。多くの文献を博捜して語句の意味を解説し、特に、漢語の出典研究に力を発揮しています。本書は、鎌倉時代成立の『釈日本紀』以後にまとめられた大々的な研究として評価されます。
 なお、本巻付録には「和語通音(わごつうおん)」があります。これは、日本初の動詞活用図表で、国語学研究上、非常に注目されるものです。この後、谷川は、日本初の五十音順の国語辞典『和訓栞(わくんのしおり)』を執筆しており、国語学研究の発展にも大きく寄与しました。
日本書紀通証 一
日本書紀通証 一
日本書紀通証 一
日本書紀通証 一
日本書紀通証 一


7 書紀集解 第一本
   江戸時代後期 西尾市岩瀬文庫
 尾張の河村秀根(かわむらひでね)による『日本書紀』の注釈書。30巻20冊。天明5年(1785)の秀根の自序があるものの、刊行は文化初年頃とみられます。『日本書紀』本文を適宜区切ったうえで、割注を付す形式をとっています。特徴は、その書名にもあらわれているとおり、「日本書紀」の本来の名は、「書紀」で「日本」はないものととらえたことです。注釈では、『日本書紀』本文の校訂を行い、『日本書紀通証(にほんしょきつうしょう)』と同じく出典を記しています。


表 主な日本書紀写本
 『日本書紀』の写本は、最古のものでも平安時代前期、9世紀に作成されたものです。平安時代の写本は、『日本書紀』全30巻のうち断簡や一部が残されているのみです。また時代を経るにしたがい、伝わる巻数は増えますが、全30巻の写本がそろうのは、江戸時代初め、慶長頃(1596〜1615)に書写された内閣文庫本まで待たなければなりません。これらの写本を校訂し、江戸時代には版本が作成されます。
 現在、私たちが読んでいる『日本書紀』は、こうした版本を底本として様々な写本と比較校訂したものです。
主な日本書紀の写本



   

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