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亀山宿問屋若林家


 江戸時代、亀山宿には東町と西町に宿問屋があり、東町は樋口家が、西町は若林家が業務を担当していました。  宿問屋は、人馬による継立(つぎたて)業務を管轄し、公用で移動する人や荷物を宿場から宿場へ送ったり、公用の旅行者に対し宿を斡旋する業務を行いました。また宿問屋は、宿役人の中での最高位で、一般的には町の有力者が務めます。若林家は代々又右衛門を名乗っており、その他、来歴などは不明ですが、同様に若林家も町の有力者だったとみられます。
 このコーナーでは、西町にあった宿問屋若林家についてご紹介します。









1.惣地面建物之図面並藪図(そうじめんたてもののずめんならびにやぶず)

(亀山市歴史博物館所蔵若林家文書1−53)

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 @人馬継立馬駅
 A店
 B醤油蔵


 この史料は、普請(ふしん)をするにあたって、京都の八木成器へ家相(かそう)を占ってもらった時の建物の図面です。この図面から若林家の間取りをみると、表通りの東海道に面した場所に「人馬継立馬駅(いんばつぎたてうまえき)」や「店」があり、また奥には、「醤油蔵」があります。このうち醤油蔵は、かなり広いうえに、蔵の中にかまどがあり、また、蔵のすぐ外には井戸もあります。このことから、若林家では、「人馬継立」などの業務以外にも、醤油を製造販売していたことがうかがえます。



2.若林家本家借家建て替えにつき相談の書状


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(田中稲蔵家寄託若林家文書12)


 この史料は、史料1の図面に附属するものです。家相について若林又右衛門から八木成器へ送った書状に、八木成器が返答を朱書で書き込んでいます。
 この書状の中で、若林又右衛門は、問屋場の間取りの勝手が悪いので間取りを変えたいと言っています。



翻刻文(Internet Explorerのみ縦書き表記になります。)

    尚々粗抹之御菓子進上仕候
    御笑納可被下候、
 一筆啓上仕候、寒冷相募
 申候処愈御家内様御揃
 御壮健ニ可被成御座、珍重之
 御儀奉存候、誠ニ先達より
 度々家相之儀ニ付、段々
 御苦労申上候、辱仕合ニ
 奉存候、猶又此度問屋場
 且又借家破損仕候ニ付、
 取繕申候、右ニ付借家之分
 本家之方引取、本家之
 物置ニ相用ヒ申度候ニ付、御尋
 申上候、則絵図面ニ黄紙ニ
 付紙仕候間、御覧可被下候、右ニ
 家相宜敷御座候ハヽ、本家
 売用之味噌入所ニ仕度候ニ付、
 御尋申上候、
 右借家・本家へ取入候事、甚以大造成ル造作ニ御座候、
 先朱引ヲ以、吉相之利ニ直し置候、扨又右借家壱間斗
 問屋場之内庭ニいたし、押入ニも拵へ候か、又ハ庭ニ広ケ
 置候事、家相宜敷無造作ニ拵候事、則○此印直ニ置候、
一問屋場間取不勝手ニ付、
 取替申候、則白紙ニ
 重ねはりニ仕、此度相改申候、
 間取之通ニ絵図面ニ相記
 申候、此義間取何れも、宜敷御座候、
一未申之方ニ有之候、建物
 一昨年取のけ、辰巳之方へ
 送り、門長屋ニ相建申候、宜候哉、
 御尋申上候、則絵図面ニ相記
申候、此義取直し之通、宜敷吉相ニ相成候、
一南之方去年土蔵壱ヶ所
 相建申候、且又物置も相直し
申候、宜候哉、御尋申上候、則
 白紙ニ重ねはりニ仕、相改
 申候 通、絵図面ニ相記申候、
 此義も随分宜敷出来申候、吉相也、

右之通相改申候処、白紙ニ
重ねはりニ仕置候、御覧可被下候、
先は右御判断御頼申上候、
貴答可被下候様御頼申上度候、
如此ニ御座候、恐惶謹言

  十一月十八日          若林又右衛門

八木成器様

此借家、黄紙之分本家へ取入、甚以大造作也、
追啓申上候、借家之処、黄紙ニ
付紙有之候処、又白紙ニ
付紙致置候、近年之内ニ
木小屋相建申度候ニ付、宜候哉
御尋申上候、御覧可被下候御頼願
申上候、其外ニ黄紙ニ付紙之処
御尋申上候、此所木小屋艮ノ方一ヶ所凶也、
              其外一ヶ所ハ障なし、





3.新畑証文之事


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(田中稲蔵家寄託若林家文書22)


 この証文は、延宝7年(1679)5月5日に、亀山藩から出されたもので、羽若村にある藩直轄の山林の一部を畑に開発し、その年貢を伝馬役にあてるというものです。
 延宝7年は、板倉重常が亀山城主の時代であり、この証文の発給者である大石三右衛門と板倉杢右衛門は、板倉家の家老です。



翻刻文(Internet Explorerのみ縦書き表記になります。)

   新畑証文之事
一高九石九斗六升八合   羽若村松山之内
 此町壱町弐反四畝拾八歩
右之新畑は、西町御伝馬役之者為
御救、羽若村御立山之内にて、地面
被下之処、延宝四辰・巳両年ニ令開発之、
去午年より高ニ壱ツ取御年貢上納
仕候付、新田高加之、免状に書載
有之通、定免ニ相究、且又羽若村
諸役等許之被下者也、
               大石三右衛門㊞
  延宝七年未五月五日
               板倉杢右衛門㊞

            西町
             問屋・馬持中  





4.異国船来航を飛脚より聞くにつき申上覚


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(加藤明家所蔵資料25-1-136)


 この覚書は、肥前国(ひぜんのくに)(現在の佐賀県と長崎県にまたがる地域)の松平肥前守(鍋島氏)の飛脚(ひきゃく)が亀山を通過した際に、薩摩(現鹿児島県)沖に異国船(いこくせん)が見えたと話したことを伝えています。
 問屋場(といやば)は人や物が行き交う場所ですので、このような情報もいち早く伝わってきます。



翻刻文(Internet Explorerのみ縦書き表記になります。)

   覚
一肥前松平肥前守様
 飛脚衆下り、今日
 通行之所、薩摩沖
 ニ異国船ミへ申候
 由御噺被成候ニ付、此
 たん申上申候、
  辰五月十六日
     若林又右衛門
  文化五年





5.問屋見習い拝命の進物書


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(田中稲蔵家寄託若林家文書8)


 この史料は、文政2年(1819)6月15日に、亀山藩町奉行の平岩道八他2名より、又右衛門の倅周助が問屋見習いを仰せつかった時に、立ち会い人である亀山藩役人へ進物を渡した記録です。
 一般的に宿場には、宿役人として問屋の他、年寄・帳付などの役人がいましたが、亀山宿での実態はよくわかっていません。年寄見習いは、宿役人の中の下級役人にあたります。この史料によれば、亀山宿では、問屋見習いや年寄見習いの役職があったことわかります。西町の問屋は、若林家が世襲で引き継ぎますが、問屋見習などの下積みを経て、問屋を引き継いだことがこの史料からみえてきます。



翻刻文(Internet Explorerのみ縦書き表記になります。)

  文政弐年卯六月十五日
         又右衛門悴
          周助義
  実体ニ相聞、問屋見習
  披 仰付候、
       町御奉行
         平岩道八様
         山中為右衛門様
       御小頭
         武藤橋右衛門殿
  御立会被仰付候、
   右ニ付十七日ニ進物
 諸白弐升  御奉行
 鯛壱枚     佐治善右衛門様
         同
 同        石川治部右衛門様
 諸白弐升  御郡代
 大 こち弐本  西村重八様
         同
 同        中川七右衛門様
         同
 同        天野義太夫様
         同
 同        酒井完治様
         町御奉行
           平岩道八様
         同
 同        山中為右衛門様
 酒料三匁  御小頭
 鯛壱枚     武藤橋右衛門殿へ

右之通進物いたし候、尤見習
ゆへ、各別之義無之、如斯ニ差上申候、
伊藤孫三郎殿悴、義三郎殿是又
同月ニ年寄見習被仰付遣候もの、
手前と申合、同様ニ被致候、以上
     西丁問屋





6.醤油蔵他借用証文


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(亀山市歴史博物館所蔵若林家文書1-57-10)


 若林家は、問屋の他にも醤油の製造販売を営んでいました。この史料は、所持していた醤油蔵・道具・店を近江屋久兵衛に貸すにあたり取り交わした証文です。この近江屋は、明治以降に西町で「文武」や「東雲」などの銘柄の酒を販売した西谷家のことです。
 この史料から、若林家がこの証文を取り交わした弘化4年(1847)頃には、醤油の製造を止め、代わりに近江屋が製造を始めたことがうかがえます。
 また、若林家は、他の証文によれば、文久元年(1816)3月に日野屋へ東通地面建物譲渡の仮契約をし、元治2年正月に正式に譲渡されています。しかし、それまでに近江屋が醤油蔵や道具を借用していたことは、今まで知られていなかったことです。



翻刻文(Internet Explorerのみ縦書き表記になります。)

   差入申一札之事
一此度御所持之醤油蔵并道具・売場店共、
 不残致借用候ニ付、則御約定左之通、
一借賃之義は、当未年金壱両弐分、来申・酉二ヶ年は
 壱ヶ年ニ金三両ツヽ、其後戌年@未年迄拾ヶ年
 は壱ヶ年ニ金七両弐分宛、都合拾三ヶ年之間
 年々七月・十二月両度ニ相渡可申候事、
一家役諸懸り物之義は、不残右借賃之内ニ
 御賄被下候事、
一建物・屋根・柱・外側修復之義は、御持主@御直し
 可被下事、
右之通、御規定之上致借用候処、相違無御座候、
為念取為替一札如件、
             江州甲賀郡和田村
  弘化四丁未年      近江屋久兵衛㊞
          八月

     若林亀六殿






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