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ヤマトタケルと能褒野王塚古墳


ヤマトタケル

 ヤマトタケルは、奈良時代に編さんされた歴史書の『日本書紀にほんしょき』『古事記こじき』に登場する伝説上の人物です。景行天皇けいこうてんのうの皇子(おうじ・みこ)でオウスが本来の名です。
 『古事記』では身長が2mほど、気性が激しく戦い上手としています。また、『日本書紀』では身長1丈(じょう:約3m)もの大男の力持ちで美男子であったとされます。
 父である景行天皇に従わない者との戦うために、九州・東国、[古事記では出雲いずも(現島根県東部)も]に赴きます。
 九州の王「クマソ」を倒した際に、日本最強の勇士を意味する「ヤマトタケル」の名を相手から送られます。
 東国からの帰路に、伊吹山いぶきやま(岐阜県)の荒ぶる神を倒すため山に入りますが、その怒りにふれ病となり下山します。
 病身のまま故郷大和国(現:奈良県)へ向かう途中、「ノボノ」で亡くなり、その地に陵墓りょうぼが築かれました。また、その魂(たましい)は白い鳥に姿を変え飛び去ったとされています。


【図1 ヤマトタケル行程図】

 ヤマトタケルの物語は、複数の話を複合して成立したと考えられていますが、その中には「三重」をはじめとする地名の由来や、伊勢神宮や斎王さいおう杖衝坂つえつきざかなど三重県にゆかりの深い逸話いつわが数多く盛り込まれています。また、ヤマトタケルのきさきであるオトタチバナヒメについて、亀山には忍山おしやま神社の祀官しかんであったオシヤマノスクネの娘であるとの伝承が遺されています。また、明治26年(1893)に、墓の隣接地に能褒野神社が創設されたほか、平成24年5月に地域のみなさんによって井田川駅前にヤマトタケル石像が設置されています。


【写真1 忍山神社】


【写真2 鈴鹿小山宮(忍山神宮)跡とされる愛宕山(押田山:遠景)】


【写真3 鈴鹿小山宮(忍山神宮)跡とされる愛宕山(押田山:頂上)】


【写真4 能褒野神社】


【写真5 井田川駅前に設置されたヤマトタケル石像】




日本武尊?倭建命?能褒野?能煩野?

 ヤマトタケルの人物像は、『古事記』と『日本書紀』の記事にしか見ることはできません。ところが、ヤマトタケルに関しての記事はこの二つの歴史書でまったく同じではありません。
 まず、名前の書き方も『日本書紀』では「日本武尊」、『古事記』では「倭建命」とされますし、亡くなって墓が営まれた場所も、「能褒野」[『日本書紀』]・「能煩野」[『古事記』]と違う表記となっています。どちらの表記が正しいのかを知る他の歴史書などもありませんので、ここでは「ヤマトタケル」「ノボノ」とカタカナ表記を用いています。


【写真6 『日本書紀 巻七』(明治3年)】


【写真7 『古事記 中巻』(明治8年)】


 【表1 ヤマトタケルに関する記事の「古事記」と「日本書紀」の対比】

 なお、ヤマトタケルの墓とする古墳[能褒野王塚古墳]を、宮内庁くないちょうでは「日本武尊能褒野墓」と『日本書紀』における表記を用いていますが、これは、『日本書記』が天皇の命により国の事業として編さんされた歴史書[正史せいし]と位置付けられていることから『日本書紀』の表記を用いているとみることができます。


【写真8 能褒野王塚古墳空中写真】


【写真9「景行天皇皇子日本武尊能褒野墓」】


ヤマトタケルの墓候補地をめぐって

 ヤマトタケルの墓はどれか。これについては、折にふれ先人が思いをめぐらし、あるいはその推理を書き残しています。現在、ヤマトタケルの墓に比定されているのは、亀山市田村町の能褒野王塚古墳のぼのおうつかこふん[丁子塚ちょうじづか]です。しかし、これは、明治12年(1879年)に明治政府によって比定されたことにより始まります。それまでの国学者は、白鳥塚しらとりづか[1号墳:鈴鹿市上田町]や二子塚ふたごづか[双子塚1号墳:鈴鹿市長沢町]を中心にしたものが多くみられます。また、亀山藩では、石川成之いしかわなりゆきなどが二子塚と主張するまで武備塚たけびづか[鈴鹿市長沢町]を考えていたようです。
 そして、明治に比定されたヤマトタケルの墓は、その意味で、ヤマトタケルが書かれている『日本書紀』や『古事記』の作成年代からすれば、比較的新しい歴史事象といえましょうか。【表2】は、ヤマトタケルの墓の候補地をめぐって、先人がどんなコメントをのこしているか、という点にスポットをあて、ヤマトタケルの墓の比定史を紹介しています。


【写真10 白鳥塚1号墳】


【写真11 双子塚1号墳】


【写真12 双子塚1号墳石室内部】


【写真13 武備塚古墳】

 【表2 ヤマトタケル墓諸説一覧表】


能褒野王塚古墳のぼのおうつかこふん(田村町)

 能褒野王塚古墳は、鈴鹿川支流の安楽川あんらくがわ御幣川おんべがわの合流点の東方左岸上、標高40m程の中位段丘の端部に位置し、現在の地名表記では田村町に所在します。長軸の方位をN‐50°‐Wに取る前方後円墳ぜんぽうこうえんふんで、明治12年(1879年)に「景行天皇皇子日本武尊能褒野墓けいこうてんのうおうじやまとたけるのみことのぼのはか」として治定ちていされ、現在も陵墓として宮内庁により管理されています。江戸時代では「丁子塚」と呼ばれ、「ヤマトタケル」の墓との認識はされていませんでした。

【図2 能褒野王塚古墳・名越古墳位置図】


【図3 能褒野王塚古墳及び能褒野古墳群平面図】


 昭和4年(1929年)に帝室林野局ていしつりんやきょくが作成した陵墓図りょうぼずによれば、全長90m、後円部径54m、後円部高9.5m、前方部幅44m、前方部長40m、前方部高6.5mを測り、北勢地域最大の前方後円墳です。埋葬主体まいそうしゅたいの構造は不明ですが、地元の古老の話として、かつては内部に何人もの人が入れる大きな穴が空いていたとのことで、竪穴式石室たてあなしきせきしつであった可能性があります。出土遺物は器財埴輪きざいはにわ朝顔形あさがおがたを含む鰭付円筒埴輪ひれつきえんとうはにわの存在が知られています。能褒野王塚古墳から谷を挟んで、400m東に所在する名越古墳なごしこふんからも器財埴輪、鰭付円筒埴輪片が採集されており、両者の築造は4世紀末頃に位置付けられます。鰭付埴輪の存在は、同じく鰭付円筒埴輪が出土した石山古墳[伊賀市]や畿内を中心とする他地域との関係が注目されています。特に、鰭付埴輪の分布と伝播経路からは、大和盆地中央から北大和地域に移行した王権が伊賀を経由して、美濃・尾張地域へ進出する拠点としてこの地域へ積極的に介在し、鈴鹿川流域の首長が北大和の王権の配下に組み込まれる中で鰭付埴輪を含む首長墓しゅちょうぼが導入されたものと考えられます。


【図4 鰭付埴輪分布図】


【図5 名越古墳墳丘復元図】


【図6 名越古墳出土鰭付円筒埴輪実測図1】


【図7 名越古墳出土鰭付円筒埴輪実測図2】


 【表3 鰭付埴輪出土地一覧】

能褒野王塚古墳の周囲には宮内庁によって培塚とされるものも含め、能褒野古墳群として16基の円墳が所在します。これらの古墳からは6世紀代から7世紀初頭にかけての須恵器が出土していることから、能褒野王塚古墳よりもかなり後の後期古墳と考えられます。

能褒野王塚古墳出土鰭付朝顔形円筒埴輪

 能褒野王塚古墳から出土した埴輪として能褒野神社で保管されてきました。残存高93.5cm、壷部最大径32.7cm、円筒部最大径33.4cmで壷部口縁部と鰭、底部が失われていますが、おおむね旧状を復元することができます。全体に焼成時に生じた黒斑こくはんが見られ、わずかですが口縁部こうえんぶ内側と外面全体にしゅが付着していますので、本来は全体が赤く彩色されていたことがうかがえます。器面調整後に突帯とったい(タガ)を取り付け、さらに側面にみられる縦方向の筋は鰭となる粘土板を貼りつけていた痕です。円筒部分の中心には直径6.2cmの円形の透穴すかしあながあけられています。


【図8 能褒野王塚古墳鰭付朝顔形円筒埴輪実測図】


【写真14 能褒野王塚古墳鰭付き朝顔形円筒埴輪】


【図9 能褒野王塚古墳器財埴輪円筒部実測図】


【写真15 能褒野王塚古墳器財埴輪円筒部】



「ヤマトタケル」の詳細については「亀山市史 通史編 古代中世」を、
「能褒野王塚古墳」の詳細については「亀山市史 考古編第4章」
「能褒野墓」の比定、「能褒野神社」の設立の詳細については「亀山市史 通史編 近代・現代」を参照ください。
市域のこのほかの主な古墳については「古墳からわかること」をご覧ください。