まずは『星の王子さま』から・・・
ここは死者の部屋だ。暗い地下の部屋に安置された死者を見たとき、古代の人々はそこに「黄泉(よみ)の国」を思っただろう。この部屋を石室とよぶ。特に横から内部に入ることができる石室を横穴式石室(よこあなしきせきしつ)と呼ぶ。
石室の中におかれた、鉄の刀などの武具、丸い銅鏡、土器や石の棺は、人が目的を持って材料を加工し、石室に持ちこんだ死者のための「モノ」だ。ここからまとまって見つかった土器、武具や馬具は、それらは死者が生きているときに持っていたものか、死者のために用意されたものを供えられたものと考えられるのである。これらを副葬品とよぶ。 石室自体は、丸みをおびた自然の石を積み上げて作られている。だが、よく見ればその石は、上に向かうほど部屋の中に向かって少しずつせりだしており、石室の上部を、まるでドームのようにしようと意識している。また、石室の平面は正方形に近い。このようなかたちは、兵庫県南部(播磨地域)との共通性をみることができる。そして何よりも井田川茶臼山古墳の石室は、伊勢湾西岸域に横穴式石室を用いた墓のかたちが導入された時期の古墳のひとつである。
井田川茶臼山古墳が語ること
井田川茶臼山古墳は、現在はみどり町となっている井田川丘陵の尾根の頂上、標高68.8mにあった古墳である。古墳の形は、前方後円墳であった可能性がある。内部は、横穴式石室で、西に口を開く。石室は、九州北部地域の石室からの影響を受けた横穴式石室で、東海地方では井田川茶臼山古墳以後、本格的に横穴式石室が取り入れられる。しかし、伊勢湾岸への導入期の横穴式石室は同質ではなく、北勢地方においては、やや側壁(そくへき)がふくらみをもった平面形をもった石室がその後も展開する。これらは、石室の導入者層の違いが石室のかたちにあらわれたものとみることができる。
この時期、鈴鹿川流域においても、古くからこの地域に基盤をもつ勢力あるいは、ヤマト政権に急速に近づいた新勢力に、東日本の勢力と強い関係を持ちたいヤマト政権が、鈴鹿川流域の王に特別な待遇を与えたのであろうか。少なくとも、井田川茶臼山古墳のつくられた6世紀前半ごろに、東海地方において大きな転機があったことはまちがいない。 【写真5 井田川茶臼山古墳画像データ(『亀山市史 考古編』)】 井田川茶臼山古墳は今
みどり町にある「古墳公園」。そこに直径10m、高さ2mほどの小山があります。これが、みどり町をつくるための造成前に、井田川茶臼山古墳があったなごりです。
井田川茶臼山古墳は、古墳のかたち、石室のつくりかたや、石棺の下など多くの点が解明されないまま調査途中で破壊されました。今、亀山の古代史をときあかすために、もう一度、井田川茶臼山古墳との対話をしようにも、古墳そのものがなくなってしまっては、なすすべがありません。「井田川茶臼山古墳」は、わたしたちが過去との対話を放棄した「負の遺産」として存在しています。 「井田川茶臼山古墳」の詳細については「亀山市史 考古編第5章」を参照ください。 なぜそこにある?
井田川茶臼山古墳には、死者のための部屋があった。だが、山下町にあった大垣内古墳は、木の棺を直接埋めている。だから、ここに死者とともにおさめられた「モノ」は、ひとつに「まとまって」見つかった。しかし、よくみると掘り出された深さがわずかにちがう。ヨロイと刀は、ほとんど同じ高さだ。だが、ヤリとホコは、ヨロイなどより10cmほど高い位置にある。棺のあった場所は掘り返していないので、ヤリとホコは埋められた時点でヨロイなどの上にあったと見られる。おそらく、棺の中にヨロイと刀をおさめ、ヤリとホコは棺の上において土をかぶせたのだろう。やがて本の棺がくさって空洞の中に土とともにヤリとホコが落ち込んだのだろうか。
ヨロイのさらに下からは、ノコギリやノミなどがばらばらで見つかっている。 しかも、これらはみな、最初からこわれている。掘り返していない以上、下にあるものが上にあるものより、先に埋められたものにちがいない。どうやら、棺を埋める前にわざとこわしたものを埋めたらしい。いずれにしろ、「モノ」のある場所を正確に観察するだけで、「モノ」は急におしゃべりになる。 大垣内古墳(おおがいと-こふん:山下町)
山下町大垣内に所在する古墳で、沢遺跡から小さな谷をはさんだ東側に位置する。昭和47年(1972)に山下橋をかけるための道路工事で西半分を削りとられていた。昭和62年(1987)に行われた沢遺跡の発掘調査の際に、その断面から鉄刀の一部が発見されたため古墳であることが確認され、平成2年の山下橋架け替えにともない発掘調査が行われている。
復元径20m、高さ4m程の円墳で、墳丘上から出土した土器から6世紀初頭に築かれたものと考えられる。埋葬部分からは横矧板鋲留(よこはぎいたびょうどめ)短甲(たんこう)、鉄ヤリ、鉄ホコ、鉄刀といった武具類と、ノコギリ、ナイフといった工具が出土している。鉄ヤリにはその柄の漆が膜状に残っており、ヤリの柄に糸を巻いて作り出された菱形を重ねた文様が施されていたことが確認された。なお、これらの出土遺物は平成9年に亀山市指定文化財に指定されている。 現在、山下橋親柱には古代武人像があしらわれているが、この像は大垣内古墳被葬者をイメージして原直矢氏が制作したものである。
【大垣内古墳画像データ(『亀山市史 考古編』】 能褒野王塚古墳
「ヤマトタケルと能褒野王塚古墳」についてはこちらをご覧ください。
亀山市周辺でもっとも多くの古墳がつくられた、5世紀後半から6世紀前半にかけて、井田川茶臼山古墳の付近に古墳がいくつもつくられている。だが、みんなかたちや大きさがちがう。
【柴戸古墳(遺跡)発掘調査画像(『亀山市史 考古編』)】 古墳はどこにある
現在わかっている鈴鹿川・中の川流域の古墳のある場所をしめした図をみてみよう。
椋川右岸の標高53mの段丘端部に単独で所在した古墳である。土採りとその後の風水害によって墳丘の半分が削り取られ、石棺が露出して崩落する恐れが生じていた。当時の市には埋蔵文化財保護に対する体制がとれなかったため、昭和48年(1973)三重大学歴史研究会原始古代部会の学生諸氏の自費によって緊急発掘調査がおこなわれた。
このコーナーの最後に・・・
日本近代考古学の父といえる、エドワード・S・モース(EDWARD・S・MOUSE:1838〜1925)は、1879年に考古学をこう語っている。
その一方で、こうも言っている。
このコーナーのはじめに、古墳時代の亀山について研究が進められているとのべた。実は、まだ何もわかっていないと言ってよいだろう。「モノ」との対話はそう簡単なものではない。 考古学は、字のごとく「古いこと」を考える学問だ。それは、単に「古代のロマン」を追うことではなく、「モノ」を通して、社会、技術、そして文化とはなにか、ひいては人間とはなにか、を考えることだといえる。「日本人」が、考古学好きなのは、東アジアのかたすみにできた「日本」という国とはなにかを、いつも意識のなかに持ちつづけているからだろう。しかも、これは今も続く課題だ。そう、これはまさに「今」を考えることにほかならない。だが、むつかしく考えることはない。考古学とは謎解きにすぎないし、それが楽しい。 なお、モースは、明治15年(1882)7月26日から8月10日まで、東京〜京都を旅行し、四日市を経て坂下に宿泊している。 E・S・モース 『日本その日その日』(石川欣一訳 平凡社 1971年) 【亀山市の主な遺跡(『亀山市史 考古編』)】 |