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5.結婚式と祝宴



 婿(むこ)の家で行った結婚式とは、仲人が取り仕切る「夫婦(めおと)(さかずき)」と呼ばれる盃事(さかずきごと)のことであり、それが終わると祝宴となりました。祝宴は深夜まで続くことが多く、最後に出席者全員で「納めの盃(廻し盃)」を行い、お開きとなりました。
 結婚式や祝宴は、婿や嫁の両親が出席せず、婿と嫁・仲人・新客(しんきゃく)(親客。祝宴に出席する親戚を指す)で行われることも少なくありませんでした。
 さらに、式翌日には「カカビロウ」(親戚や近所の女性を呼ぶ祝宴)、その翌日には「まな板払い」(結婚式などの手伝いをした濃い親戚を慰労する宴)などのように祝宴が連日続き、それらはさまざまな人々に嫁を紹介する場ともなっていました。


5−1.「式着席順序図」[抜粋]
(仲野家所蔵)

 昭和6年(1931年)の結婚準備のための覚書にある結婚式の時の座席図です。画面右側に「エン(縁)」、画面上方に「トコ(床)」とあることから、その部屋の向きが分かり、座席による人間関係を読み取ることができます。すなわち、婿の家にとって「客」となる嫁や嫁の兄・おじは床の間のある上座側に、また、嫁の親戚は縁側からみて上に位置する部屋の奥側に座るようになっています。婿は嫁と向かい合って座り、婿と嫁のとなりにはそれぞれ仲人が座ります。ちなみに、「エン(縁)」にいる「謡曲」は盃事で(うたい)を行う役のことです。また、婿の右側の「肴」とは、おそらく盃事の時に酒の肴を形式的に箸で持ち上げる役であると考えられます。
 なお、結婚式の座席の位置は、数種類あるらしく、この図はその一例です。


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5−2.「夫婦の盃」
(個人所蔵)

 昭和53年(1978年)の結婚式での「夫婦の盃」です。「夫婦の盃」は、祝宴を開く座敷とは別室(主に寝間)で行われることも多かったのですが、この時は座敷で行われています。雄蝶雌蝶の銚子は2人の女の子が担当しており、最初に仲人が盃を受けています。
 また、三方に白米を盛って松竹梅の枝を立てたものが写っています。この白米の上には、松葉をかたどったスルメが乗っており、盃に酒を注ぎ終わるごとに、その役の人が「おさかなここに」と言って箸でスルメを持ち上げる決まりとなっていました。市域では、このような儀式が広く行われていました。

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5−3.「親子の盃」
(個人所蔵)

 昭和53年(1978年)の結婚式での「親子の盃」です。「親子の盃」とは、嫁が婿の両親と「親子の契り」を結ぶための盃で、祝宴を開く座敷ではなく、別室(主に寝間)で行われることが多く、この時も「仏壇の間」の隣の部屋で行われました(結婚式や祝宴には、婿や嫁の両親が出席しないことが多かった)。この「親子の盃」の写真でも仲人が盃を受けていることがわかります。
 また、「夫婦の盃」でも同様ですが、盃に酒を注いでいる間は謡をうたうしきたりとなっており、この「親子の盃」の写真では、髪結(美容師)が扇子を持ってうたう様子が写っています。

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5−4.「親子の盃」
(個人所蔵)

 昭和51年(1976)の結婚式での「親子の盃」です。嫁と婿の両親が親子のちぎりを結ぶ「親子の盃」は、祝宴とは別室(主に寝間)で行われることも多く、この時も座敷の奥の寝間で行われています。なお、嫁の横で盃を受けている女性は仲人であり、この「親子の盃」でも仲人が大きな役割を果たしています。


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5−5.「納めの盃」(廻り盃)
(個人所蔵)

 昭和51年(1976)の結婚式での「納めの盃」(廻り盃)です。「納めの盃」で、出席者全員が盃を受けて酒宴が終わり、ご飯が出されました。

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5−6.「盃の順序」[抜粋]
(仲野家所蔵)

 昭和6年(1931)の結婚式準備の覚書にある盃事の順序です。盃事の作法も地域や仲人によって異なる部分があったらしく、聞き取り調査で聞いた作法とは少し異なった内容が書かれています。「夫婦の盃」については、祝宴とは別の部屋で、正式な「三々九度」に近い形で行うことが書かれています。次に祝宴が開かれる座敷で、「親子の盃」と「納盃(廻し盃)」を行うことが読み取れます。

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5−7.銚子
(亀山市歴史博物館所蔵白沢家資料)

 江戸時代の天保6年(1835)の箱書きがある銚子です。銀口の銚子で「寿」の文字が打ち出されており、結婚の盃事に使われたものと考えられます。

5−8.台付三ツ組盃
(亀山市歴史博物館所蔵白沢家資料)

5−9.雄蝶雌蝶の飾り付き銚子・台付三ツ組盃(個人所蔵)

 昭和34年(1959)から平成3年頃まで料理仕出し屋が貸し出していた銚子と三ツ組盃です。この仕出し屋は、結婚式や祝宴の料理を作るだけでなく、銚子や盃、膳椀などの器類の貸し出しも併せて行っていました。市域には、このような料理仕出し屋や魚屋がたくさんありました。
 銚子には「雄蝶おちょう雌蝶めちょう」と呼ばれた飾りが付けられています。盃事では、この銚子を2人の子供(または大人)が1つずつ持ち、盃に酒を注ぐ決まりとなっていました。また、この三ツ組盃は「夫婦の盃」や「親子の盃」に使われたものです。「夫婦の盃」では、「夫婦がなか良くするように」という意味で、真ん中なかの盃を選んで使ったという話も市域に伝わっています。


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5−10.台付七ツ組盃
(個人所蔵)

 この七ツ組盃も昭和34年(1959)から平成3年頃まで料理仕出し屋が貸し出していたものです。三ツ組盃とは違って、盃が大きいことが特徴で、これは祝宴の最後の盃事である「納めの盃」(廻り盃)で使われていました。「納めの盃」では、「嫁のお尻が嫁ぎ先に落ち着くように」という意味で、一番下の大きな盃を選んで使うこともありました。

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5−11.角樽
(亀山市歴史博物館所蔵岡本家資料)

5−12.新客料理献立
(渡辺家所蔵 亀山市歴史博物館寄託)

 明治16年(1883)の「婚礼祝儀帳」に書かれています。「新客しんきゃく」とは、結婚式に出席する親戚のことで、ここに書かれているのは、その人たちに出す料理の献立です。のし(あわび)、鯣(するめ)に始まって祝盃と続く部分は、昭和期の献立とは異なっています。

5−13.新客料理献立
(渡辺家所蔵 亀山市歴史博物館寄託)

 明治期の書類の中にあり、文末に「三十二年」と書かれていることから、明治32年(1899)のものと推測されます。吸い物で始まって祝盃となる部分、台引だいびき(引き出物の原型)が付いている部分は、昭和後期の市域における献立に共通しています。

5−14.結婚式料理献立
(亀山市歴史博物館所蔵安藤家資料)

 昭和13年(1938)4月3日の結婚式に伴う祝宴の料理が書かれた献立です。4月1日午後3時の荷物係を招いた祝宴、同3日昼の親戚を招いた祝宴、同4日昼の組の人を招いた祝宴、同5日昼の「茶披露ちゃびろう」(親戚や近所の女性を招いた祝宴)、同6日午後4時の「まな板払い」(結婚式の手伝いをした濃い身内を招いた慰労の宴)の献立が書かれているにもかかわらず、同3日夕方から行われたはずの結婚式の祝宴の献立だけが書かれていません。
 しかし、その献立の内容から判断すると、結婚式の祝宴は、おそらく1日や3日の祝宴に近い献立であったと考えられます。つまり、昭和後期の献立とほぼ同じような構成であったと推測できるのです。

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(上記7枚を合成したものです)

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5−15.本膳
(亀山市歴史博物館所蔵)

 結婚式の祝宴では、本膳料理が出されていました。本膳はどの家にもあったものではなく、必要な時にそれを持つ裕福な家や仕出し屋から借りたり、組などで共有していたものを使ったりしていました。この本膳は黒の漆塗りで結婚式はもちろん、葬式や法事の際にも使われたと考えられます。

5−16.本膳
(亀山市歴史博物館所蔵小林家資料)

 結婚式の祝宴で使われた朱塗りの本膳です。この本膳は魚屋(仕出し屋)に伝わっていたもので、大正2年(1913)の箱書きがあります。当時も魚屋が結婚式の料理を作りに行き、食器類を貸し出していたことがわかります。この本膳は朱塗りであるため、葬式や法事では使われていなかったはずです。朱塗りの本膳の利用が多くなると、黒塗りの本膳を結婚式に使うべきではないと考える人も増えていきました。

5−17.本膳
(亀山市歴史博物館所蔵)

 昭和34年(1959)から平成3年頃まで料理仕出し屋が貸し出していた結婚式用の本膳です。朱塗り風の仕上げとなっていますが、漆器ではなく、プラスチックで作られています。漆器よりも管理が簡単で、洗うこともできる本膳として長く使われていました。親椀おやわん飯椀めしわん)・汁椀しるわん・ツボ・ひら中猪口なかぢょくの他に、「生盛いけもり」と呼ばれた刺身をのせた皿があります。

5−18.生盛皿いけもりざら

5−19.三ツ丼
(亀山市歴史博物館所蔵坂下民芸館資料)

 三ツ丼みつどんぶりとは、ふつう大きさの異なる三ツ組の丼のことです。市域では、結婚式や法事などでよく使われていました。三ツ丼に入れる料理は、その時々に応じてさまざまですが、たとえば、昭和13年(1938)のある家の結婚の祝宴の献立では「塩焼」「果物」「てんぷら」、大正7年(1918)の献立では「タツクリ」「カヅノコ」「キントン芋」が書かれています。いつ頃から市域で「三ツ丼」が献立に入れられたのかはわかっていませんが、江戸時代の文政7年(1824)の結婚の祝宴の献立に、「丼」として「むき身」「ねぎ」「すあへ(酢あえ)」とあるのは、三ツ丼のことであると考えられます。なお、現在でも法事などの機会に三ツ丼を出すお宅もあるようです。

5−20.焼き物皿
(個人所蔵)

 焼き物皿とは、その名の通り「焼き物」をのせた皿ですが、市域の結婚式の献立にある「焼き物」は、一尾の生魚であることがふつうでした。「焼き物」の魚の種類にはいろいろあったようです。その中でも、もっとも一般的だったのは鰤(ぶり)でした。大きな鰤を丸ごとのせる皿なので、これだけの大きさ(直径約46センチ)が必要だったのです。「焼き物」は、ヒノキの葉を敷いて出されました。

5−21.焼き物と台引 [写真抜粋]
(個人所蔵)

 昭和51年(1976)の結婚式の祝宴写真の一部です。手前に写っている生魚がいわゆる「焼き物」で、奥のパイナップル・りんご・伊勢エビ・メロンなどの盛り合わせが「台引」であると思われます。いずれも祝宴の後に客が持って帰る引き出物の一種で、祝宴の席では客に披露するため、一人前のみが出されました。

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5−22.キリゴミ皿
(個人所蔵)

 キリゴミ皿とは、「キリゴミ(切込)」という料理をのせる皿のことです。市域のキリゴミは、野菜の煮物や魚の切り身など7種類ほどを盛り合わせたもので、結婚式や法事の献立としてよく出されていました。次第に、オシモノ(寒梅粉の菓子)などの菓子で代用することも多くなり、その菓子も「キリゴミ」と呼ばれていました。

5−23.菓子のキリゴミ
(亀山市歴史博物館所蔵)

 キリゴミは、魚やエビ、野菜の煮物など7種類ほどを盛り合わせたものでしたが、次第にオシモノ(寒梅粉の菓子)などの菓子で代用することも多くなり、その菓子も「キリゴミ」と呼ばれていました。この写真では、バナナ・昆布・りんご・鯛・くわい・かまぼこ・エビ・竹の子・れんこんの9種類となっています。

5−24.硯蓋
(亀山市歴史博物館所蔵小林家資料)

 硯蓋すずりぶたとは膳の一種であり、その名はもともと硯箱の蓋を使ったことに由来するとされています。この硯蓋は、市域の魚屋(仕出し屋)に伝わっていたもので、結婚の祝宴の際に貸し出していたものと思われます。これが入っていた箱には「寿ゝ利富多(すずりぶた)」とおめでたい字をあててその名が書かれています。
 市域の聞き取り調査では、結婚式の祝宴で硯蓋を使った事例を確認できませんでしたが、記録にその名称があり、また現物としてのこっていることから、その使用があったと考えられます。

5−25.祝い籠
(亀山市歴史博物館所蔵加藤秋男家資料)

 「籠盛かごもり」とか「台引だいびき」などと呼ばれた引き出物には、鯛・ハマグリ・伊勢エビなどがつくことも多かったと言います。この祝い籠は、それらをのせるための籠です。「六つ目」と呼ばれる編み方で作られています。この籠は、結婚式の料理を請け負った魚屋(仕出し屋)から籠屋に注文され、その数や大きさも魚屋から指示がありました。

5−26.会席膳
(個人所蔵)

 結婚式の祝宴では、本膳を使いましたが、結婚に伴う「見立みたて(タチブルイマイ)」「親類呼び」「カカビロウ(チャビロウ)」「まな板払い」などの多くの祝宴では、本膳の略式である会席膳を使うこともよくありました。
展示している会席膳は、昭和34年から市域で仕出し屋をしていた家で保管されてきたもので、結婚に伴う祝宴でもよく使われていたと言います。

5−27.引き菓子の担い箱
(亀山市歴史博物館所蔵田中家資料)

 結婚式の引き菓子を運ぶための担い箱です。これを「オリ」「ホッカイ」などと呼ぶ人もいます。もともとは、これを天秤棒で吊って菓子を運んでいたため、箱を二つで一荷いっかと呼びます。この箱は菓子を出した後、結婚式を行う家の玄関先など見えやすいところに置かれ、箱の数が多いほど「立派な結婚式だ」と言われました。それを逆手にとって、最初から菓子を入れない空箱も一緒に持って来るよう菓子屋に頼む家があった、という笑い話ものこっています。

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5−28.「婚礼祝儀受納帳」[抜粋]
(服部克吉家所蔵)

 文政7年(1824)の婚礼の祝儀を記録した帳面です。この中に結婚式祝宴の献立書があり、当時の献立の一例を知ることができます。「引さかな」「大鉢生盛」など、昭和期の献立とは少し異なった部分があるものの、「丼」(三ツ丼)「硯蓋すずりぶた」は昭和期の献立に共通しています。

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5−29.「董子婚儀衣服其他諸器具一切」[抜粋]
(服部克吉家所蔵)

 大正7年(1918)の結婚式準備の品物に関する覚書にあった結婚式祝宴の献立書です。「三丼」や「切込」の内容がみられ、当時の献立を知る貴重な記録となっています。

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