2.国有化こくゆうかされた鉄道てつどう
明治めいじ40ねんの(1907)鉄道国有法てつどうこくゆうほう施行しこうにより、関西鉄道かんせいてつどう国有鉄道こくゆうてつどうとなりました。そして昭和しょうわ24ねん法令ほうれいわって、これまでの国有鉄道こくゆうてつどうは、日本にほん国有こくゆう鉄道てつどう、つまり国鉄こくてつになります。この国鉄こくてつ時代じだいは、亀山かめやまが「鉄道てつどうのまち」とばれた時代じだい最盛期さいせいきであり、おおくの地元住民じもとじゅうみん国鉄こくてつ採用さいようされ、その結果けっか、さまざまな鉄道てつどうにまつわる資料しりょうがのこされています。
 このコーナーでは、近年きんねん寄贈きそうされた鉄道資料てつどうしりょう紹介しょうかいするとともに、のこされた資料しりょうから、くに鉄道てつどうとなってからの市域しいき鉄道てつどうのあゆみを紹介しょうかいします。
(1) 関西本線かんさいほんせん参宮線さんぐうせんとなった市域しいき鉄道てつどう

関西鉄道かんせいてつどうは、明治めいじ39ねん(1906)の鉄道国有法てつどうこくゆうほう公布こうふによりくに買収ばいしゅうされました。関西本線かんさいほんせんという名称めいしょうは、よく40ねん(1907)に国有鉄道こくゆうてつどうとなったときからはじまります。そして、参宮鉄道さんぐうてつどうおなじように国有こくゆう鉄道てつどうとなり、亀山駅かめやまえきから山田駅やまだえきあいだは、参宮線さんぐうせんとなりました。
 ここでは、くに鉄道てつどう直接ちょくせつ運営うんえいしていたころ亀山かめやまのようすを路線図ろせんずえき構内図こうないず中心ちゅうしん紹介しょうかいします。

[2-1]
2-1:
亀山停車場改築記念絵葉書
大正2年(1913)
東海旅客鉄道株式会社
亀山駅所蔵
[2-1]
関西鉄道かんせいてつどう国有鉄道こくゆうてつどうになった6年後ねんご大正たいしょうねん(1913)に、亀山駅かめやまえき改築かいちくします。この改築かいちくされた駅舎えきしゃは、外観がいかん変化へんかしていますが、現在げんざい使用しようされています。
[2-2]
2-2:
「亀山駅改築紀念」猪口
大正2年(1913)
館蔵松上家資料
[2-2]
 この猪口ちょこふちには、「亀山駅改築記念かめやまえきかいちくきねん」とかれています。大正たいしょうねん(1913)の亀山駅改築かめやまえきかいちくとき記念品きねんひんとしてくばられた猪口ちょこです。そこの「こう」の文字もじは、最初さいしょ鉄道てつどう管轄かんかつした工部省こうぶしょうかしら文字もじです。
[2-3]
2-3:
大正十三年十月一日施行 改訂第七版鉄道線路新地図
大正13年(1913)
館蔵櫻井(光)家資料
[2-3]
 これは、大正たいしょう13ねん(1924)に発行はっこうされた、鉄道てつどう路線図ろせんずです。鉄道省てつどうしょう所管しょかん区域くいきしるされており、亀山駅かめやまえきさかい神戸鉄道局こうべてつどうきょく(神鉄局)と名古屋鉄道局なごやてつどうきょく(名鉄局)にわかれています。
[2-4]
2-4:
昭和八年八月編 亀山駅々勢要覧
昭和8年(1913)
館蔵桜井(好)家資料
[2-4]
 この要覧ようらんには、亀山駅かめやまえき建造物けんぞうぶつや、職員しょくいん給料きゅうりょう旅客収入りょかくしゅうにゅうなどの統計とうけいほか構内こうない営業えいぎょうについても記載きさいされています。それによれば、構内こうない駅弁えきべんなどを販売はんばいする立売人たちうりにんは5めい出店しゅってんについては1めい名前なまえ記載きさいされています。
[2-5]
2-5:駅構内(亀山)
昭和28年(1953)頃
館蔵林家資料
[2-5]
 これは、昭和しょうわ28ねん亀山駅かめやまえき構内こうないのようすを図面ずめんにしたものです。駅構内えきこうないには、テニスコートや診療所しんりょうじょがありました。
[2-6]
2-6:
駅構内図(KAMEYAMA)
昭和26年(1951)
館蔵林家資料
[2-6]
 2-5の構内図こうないずの2年前ねんまえ作成さくせいされた、この亀山かめやまえき構内図こうないずでは、転車台てんしゃだい機関庫きかんこ機関車きかんしゃ車庫しゃこまえ右側みぎがわあらわされています。そして、機関庫きかんこ東側ひがしがわ場所ばしょには、浴場よくじょう風呂ふろ)がありました。
 なお、機関庫きかんこ南側みなみがわ場所ばしょには、2-5の構内図こうないずかれているテニスコートは、まだありません。
[2-7]
2-7:
亀山駅構内全景(写真)
昭和38年(1963)
東海旅客鉄道株式会社
亀山駅所蔵
[2-7]
 この写真しゃしんは、昭和しょうわ38ねん(1963)に亀山駅かめやまえき構内こうない撮影さつえいしたものです。写真しゃしん下側したがわ西にし上側うえがわひがしです。
[2-8]
2-8:駅構内図(SEKI)
昭和26年(1951)
館蔵林家資料
[2-8]
 これは、関駅せきえき構内図こうないずです。一番線いちばんせんくだ本線ほんせん中本線なかほんせんのぼ本線ほんせんのぼ貨物線かもつせんなどの記載きさいがあり、むかしは、線路せんろかずおおかったのですね。
[2-9]
2-9:駅構内図(KABUTO)
昭和25年(1950)
館蔵林家資料
[2-9]
 これは、加太駅かぶとえき構内図こうないずです。列車れっしゃは、加太駅かぶとえき曲線きょくせんえがくようにはいっていきます。駅構内えきこうないは、蒸気じょうき機関車きかんしゃはしっていた当時とうじのまま、ながいホームがいまのこっています。
[2-10]
2-10:駅構内図(下庄)
昭和26年(1951)
館蔵林家資料
[2-10]
 これは、下庄駅しものしょうえき構内図こうないずです。この構内図こうないず貨物かもつホームにも、亀山駅かめやまえきおなじように浴場よくじょう風呂ふろ)がかれています。
[2-11]
2-11:検修車庫前(写真)
昭和時代
御幸地区まちづくり協議会
提供
[2-11]
 この写真しゃしん検修車庫けんしゅうしゃこは、構内図こうないずでは、「機関車きかんしゃ車庫しゃこ」とか、「機関庫きかんこ」という名前なまえかれています。
[2-12]
2-12:給炭槽(写真)
昭和時代
御幸地区まちづくり協議会
提供
[2-12]
写真しゃしん右側みぎがわうつっているのは、亀山駅構内かめやまえきこうないにあった給炭槽きゅうたんそうです。給炭槽きゅうたんそうとは、蒸気機関車じょうききかんしゃ燃料ねんりょうとなる石炭せきたんむための設備せつびです。
[2-13]
2-13:転車台(写真)
昭和時代
館蔵企画課移管資料
[2-13]
転車台てんしゃだいは、蒸気機関車じょうききかんしゃ方向ほうこう転換てんかんさせる機械きかいです。2-11の検修車庫けんしゅうしゃこちかくにあり、現在げんざいものこっています。
[2-14]
2-14:荷積み風景(写真)
昭和30年(1955)代
東海旅客鉄道株式会
亀山駅所蔵
[2-14]
 この写真しゃしんは、「テルファー」とよばれるクレーンで荷物にもつはこれる様子ようす撮影さつえいしたものです。
[2-15]
2-15:
坊谷踏切平面図(関西本線関駅・加太駅間)
昭和26年(1951)~
昭和31年(1956)頃
館蔵林家資料
[2-15]
 この平面図へいめんずは、関駅せきえき加太駅かぶとえきあいだにある坊谷ぼうだに踏切ふみきりいたものです。これには、番舎ばんしゃかれています。むかし踏切ふみきりは、番人ばんにんとよばれるかかりひとによって開閉かいへいされていました。そのため、踏切ふみきりのそばには、番人ばんにん常駐じょうちゅうするための番舎ばんしゃがありました。
[2-16]
2-16:坊谷踏切(現在)
令和2年(2020)撮影
[2-16]
 この写真しゃしんは、現在げんざい坊谷踏切ぼうだにふみきり風景ふうけいです。
[2-17]
2-17:
白子踏切(参宮線亀山駅・下庄駅間)
昭和26年(1951)~
昭和31年(1956)頃
館蔵林家資料
[2-17]
 この白子踏切しろこふみきり平面図へいめんずには、番舎ばんしゃかれていません。常駐じょうちゅうする番人ばんにんがいなかったのでしょうか。もしかしたら遮断機しゃだんきがない踏切ふみきりだったのかもしれません。
[2-18]
2-18:
白子踏切(現在)
令和2年(2020)撮影
[2-18]
 この写真しゃしんは、現在げんざい白子踏切しろこふみきり風景ふうけいです。

(2) お召列車めしれっしゃ運行うんこう

 お召列車めしれっしゃとよばれる列車れっしゃは、天皇てんのうなどが特別とくべつ列車れっしゃです。のこされた資料しりょうによれば、お召列車めしれっしゃ運転うんてんにあたっては、停止位置ていしいち確認かくにんなどの事前じぜんれん練習れんしゅう安全祈願あんぜんきがんがおこなわれ、万全ばんぜん準備しゅんびをしていたようです。
 ここでは、お召列車めしれっしゃにまつわる資料しりょう紹介しょうかいします。

[2-19]
2-19:お召列車(写真)
昭和34年(1954)
館蔵草川(正)家資料
[2-19]
 この写真しゃしんは、昭和しょうわ34ねん(1954)4がつに、皇太こうたい現在げんざい上皇じょうこう)ご夫妻ふさいが、結婚けっこん報告ほうこく伊勢いせ神宮じんぐうときられた蒸気機関車じょうききかんしゃ撮影さつえいしたものです。写真しゃしん場所ばしょは、亀山製絲かめやませいし株式会社かぶしきがいしゃちかくの鈴鹿すずか川橋梁がわきょうりょうです。
写真しゃしんには、お召列車めしれっしゃ記載きさいされていますが、皇太子こうたいし夫妻ふさいられる列車れっしゃは、正式せいしきには、「乗用列車じょうようれっしゃ」とびます。
[2-20]
実際じっさいにお召列車めしれっしゃにつけられた国旗こっきふさです。実際じっさい使つかわれていたものなので、国旗こっきすすれ、げてあないています。

[2-20]
[2-20]
2-20:お召列車 国旗・房(昭和20年(1945)ヵ/館蔵松山家資料)
[2-21]
2-21:
お召機関車プレート「C51 100」(レプリカ)
昭和27年(1952)
館蔵宮崎(平)家資料
[2-21]
亀山機関区かめやまきかんく所有しょゆうするお召機関車めしきかんしゃは、C51 100機関車きかんしゃでした。このプレートはレプリカですが、裏面りめんられた説明書せつめいがきをみると、昭和しょうわ27ねん(1952)に皇太子こうたいし伊勢神宮いせじんぐう立太子りったいし報告ほうこくったときの機関車きかんしゃのプレートです。
[2-22]
2-22:
お召列車機関車修拔式(写真)
昭和15年(1940)
館蔵松山家資料
[2-22]
 お召列車めしれっしゃ運行うんこうにあたっては、神主かんぬしをよんで、安全祈願あんぜんきがんをおこないます。これを修祓式しゅうばつしきといいます。
[2-23]
2-23:
お召列車出発前の松山栄次郎氏(写真)
昭和20年(1945)
館蔵松山家資料
[2-23]
 この写真しゃしんは、昭和しょうわ20ねん(1945)11がつ天皇てんのう行幸ぎょうこうさいしてのひとコマです。写真しゃしんうつ松山まつやま栄次郎氏えいじろうしは、国鉄こくてつ勤務きんむしていたときに15かいもお召列車めしれっしゃ運転うんてんしています。
(3) 戦争せんそう鉄道てつどう

日本にほん戦争せんそうをしていた時代じだい亀山かめやま鉄道てつどう戦争せんそうとは無縁むえんではありませんでした。ここでは、戦争せんそうにまつわる鉄道てつどう資料しりょう紹介しょうかいします。
[2-24]
2-24:
支那事変従軍記念朱塗り盃
昭和14年(1939)
館蔵松上家資料
[2-24]
めい昭和しょうわ十四ねん支那事変しなじへん従軍記念じゅうぐんきねん
国有鉄道こくゆうてつどう銃後後援会じゅうごこうえんかい
昭和しょうわ12ねん(1939)にはじまった中国ちゅうごくとの戦争せんそう支那しな事変じへんといいます。このさかずきは、国有鉄道こくゆうてつどう銃後後援会じゅうごこうえんかいより、支那事変しなじへん戦地せんちった記念きねんとして昭和しょうわ14ねん(1941)にくばられました。
 なお、さかずき内側うちがわには、国有鉄道こくゆうてつどうのマークがはいっています。
[2-25]
2-25:薬莢
昭和20年(1945)
館蔵豊田(豊)家資料
[2-25]
昭和しょうわ20ねん(1945)8がつのおひるぎに亀山かめやまえき出発しゅっぱつした鳥羽行とばゆきの蒸気じょうき機関車きかんしゃがアメリカぐんによってそらから銃撃じゅうげきされ、おおくの死傷者ししょうしゃしました。この薬莢やっきょうは、そのとき使用しようされた機銃きじゅうだんのものです。
 なお、地図ちずあおった場所ばしょが、ボイラーを被弾ひだんし、うごけなくなった蒸気機関車じょうききかんしゃ停止ていしした場所ばしょです。
機関車停止場所
[2-26]
2-26:
行幸記念写真帖 亀山駅
昭和26年(1951)
館蔵坂(義)家資料
[2-26]
昭和しょうわ26ねん(1951)、昭和天皇しょうわてんのう戦後せんご慰問いもんのために全国ぜんこく巡幸じゅんこうしました。この写真帖しゃしんちょうは、昭和しょうわ天皇てんのうが、お召列車めしれっしゃ亀山かめやまとき撮影さつえいされたものが収録しゅうろくされています。
撮影者さつえいしゃ坂義昌氏さかよしまさし発行はっこう日本国有鉄道にほんこくゆうてつどう亀山駅かめやまえきです。
(4) 鉄道てつどう電化でんか

関西本線かんさいほんせん亀山駅かめやまえき名古屋駅なごやえきあいだ電化でんかは、昭和しょうわ49ねん(1974)5がつ内定ないていし、昭和しょうわ57ねん(1982)に完成かんせいしました。この記念きねんとして、同年どうねんがつ17にちに「亀山市民号かめやましみんごう」が運行うんこうされました。
[2-27]
2-27:
電化第1号柱プレート(レプリカ)
昭和52年(1977)
館蔵企画課移管資料
[2-27]
昭和しょうわ52ねん(1977)2がつ1日ついたちに、井田川駅いだがわえき関西かんさい本線ほんせん名古屋駅なごやえき亀山駅間かめやまえきかん電化でんか起工式きこうしきおこなわれ、のぼせんホーム東端ひがしはしてられた架線用第かせんようだい1号いちごう電柱でんちゅう除幕式じょまくしきがおこなわれました。このプレートは、この第1号電柱だいいちごうでんちゅうりつけられたプレートのレプリカです。国鉄こくてつ東京電気工事局とうきょうでんきこうじきょくから、関西かんさい本線ほんせん電化でんか記念きねんして亀山市かめやましおくられました。
[2-28]
2-28:
ヘッドマーク「亀山市民号」
 昭和57年(1982)
館蔵資料
[2-28]
昭和しょうわ57ねん(1982)5がつ17にちに、関西本線かんさいほんせん名古屋駅なごやえき亀山駅間かめやまえきかん電化完成でんかかんせい記念きねんした式典しきてんがおこなわれ、1番電車ばんでんしゃとなる「亀山市民号かめやましみんごう」が運行うんこうされました。このヘッドマークは、この1ばん電車でんしゃりつけられたものです。
[2-29]
2-29:
関西本線電化記念入場券(亀山駅)
昭和57年(1982)
平松直氏所蔵資料
[2-29]
昭和しょうわ57ねん(1982)5がつ17にちに、関西本線かんさいほんせん名古屋駅なごやえき亀山駅間かめやまえきかん電化完成でんかかんせい式典しきてん亀山駅かめやまえきでおこなわれました。これは、そのときの3まいセットになった亀山駅かめやまえき入場にゅうじょうけんです。
(5) えき列車れっしゃにまつわるなつかしい道具どうぐ

 「鉄道てつどうのまち」とよばれたこの地域ちいきでは、国鉄こくてつなど鉄道てつどうかかわる仕事しごといたひとおおくいました。そのため、当館とうかんにも、これまでおおくの方々かたがたから鉄道てつどうにまつわるものを歴史博物館資料れきしはくぶつかんしりょうとしてご寄贈きそういただきました。
 そこで、ここでは、当館とうかん収蔵しゅうぞうする鉄道資料てつどうしりょうや、このたび展示てんじのためにご提供ていきょういただきました関係品かんけいひん紹介しょうかいしています。
[2-30]
2-30:看板「電報取扱駅」
昭和時代
界外巖氏所蔵資料
[2-30]
 この看板かんばんは、亀山駅かめやまえきのホームのはしらりつけられていたものです。国鉄こくてつ時代じだいのまだ電話でんわすくなかったころ旅行中りょこうちゅう緊急きんきゅう連絡れんらくは、この看板かんばんがあるえきであれば、えきから電報でんぽうをうつことができました。
[2-31~2-34]
 この看板かんばんは、改札口かいさつぐちにかけられていました。改札かいさつ時間じかんになると駅員えきいんさんがこのいたをかけて、乗客じょうきゃく改札かいさつはじまったことをらせていました。

[2-31]
[2-32]
[2-33]
[2-34]
2-31~2-34:改札案内版(昭和時代/館蔵林家資料)
[2-35]
2-35:
蒸気機関車車掌車用尾灯
昭和時代
館蔵坂(勉)家資料
[2-35]
 このライトは、蒸気機関車じょうききかんしゃ車掌車しゃしょうしゃうしろにりつけられていたライトです。
[2-36]
2-36:貨車尾灯
昭和時代
館蔵林家資料
[2-36]
 このライトは、貨車かしゃ貨物列車かもつれっしゃ車輌しゃりょう)のうしろにつけられていたライトです。
[2-37]
2-37:キャリア
昭和時代
館蔵早川(賢)家資料
[2-37]
線路せんろがひとつだと、のぼ列車れっしゃくだ列車れっしゃはすれちがいができないので、ぶつかってしまいます。このような正面衝突しょうめんしょうとつふせぐための方法ほうほうとして通票つうひょう閉塞式へいそくしきというルールがありました。
 このルールでは、運転士うんてんしは、駅長えきちょうから円盤えんばんかたちをした通票つうひょうらないとつぎえき列車れっしゃはしらせることができませんでした。キャリアは、この通票つうひょうれる専用せんようケースで、下庄駅しものしょうえき使つかわれていたものです。
[2-38(参考)]
2-38(参考):
第3種通票(タブレット)
昭和時代
平松直氏所蔵資料
[2-38(参考)]
通票つうひょうは、タブレットともいいます。この通票つうひょうは、金属きんぞくせい円盤えんばん三角形さんかくけいあないています。あなかたちは、使用区間しようくかんによってほかまるだいしゅ)・四角しかくだいしゅ)・楕円だえんだいしゅ)とめられていました。
 なお、この通票つうひょう市域しいきえき使つかわれていたものではありません。
[2-39]
2-39:
蒸気機関車C58 359(鉄道100年機関車祭記念絵葉書)
昭和時代
館蔵草川(正)家資料
[2-39]
 この絵葉書えはがきうつっている蒸気機関車じょうききかんしゃC58 359は、現在げんざい亀山西小学校かめやまにししょうがっこうのとなりの公園こうえん展示てんじされている機関車きかんしゃで、昭和しょうわ19ねん(1944)に製造せいぞうされ、昭和しょうわ45ねん(1970)10がつまで使つかわれていました。
ますみ児童園じどうえん展示てんじされている蒸気機関車じょうききかんしゃC58 359
[2-40]
2-40:
蒸気機関車C58 359プレート
昭和時代
館蔵資料
[2-40]
 これは、亀山西小学校かめやまにししょうがっこうのとなりの公園こうえん展示てんじされている蒸気機関車じょうききかんしゃ側面そくめん実際じっさいにつけられていたプレートです。「C」は、動輪どうりんかずで3つ、「58」は機関車きかんしゃ形式けいしき、「359」は製造番号せいぞうばんごうあらわしています。
[2-41]
2-41:機関車区名板「亀」
昭和時代
多田直樹氏所蔵資料
[2-41]
区名板くめいばんは、運転室うんてんしつまどしたにとりつけられた、はめしきいたのことです。このいたは、機関車きかんしゃ所属先しょぞくさきあらわしています。「かめ」のは、これをつけてた機関車きかんしゃ亀山かめやま機関区きかんく車輌しゃりょうであることをあらわしています。
[2-42~2-47]
 サボとは、列車れっしゃさきしめしたもので、列車れっしゃ前面ぜんめん側面そくめんにかけられていました。最初さいしょてつ(ホーロー)せいでしたが、のちにプラスチックせいになりました。そして現在げんざいでは、ロールしき布製ぬのせいまくや、電光でんこう掲示板けいじばんわっています。

[2-42]
[2-43]
2-42・2-43:サボ(昭和時代/館蔵林家資料)
[2-44]
[2-45]
[2-46]
[2-47]
2-44~2-47:サボ(昭和時代/多田直樹氏所蔵資料)
[2-48~2-52]
列車れっしゃにとりつけられた、特急とっきゅうなどの列車名れっしゃめいかれたいた愛称板あいしょうばんとよびます。ここに紹介しょかいしている愛称板あいしょうばんは、むかし亀山駅かめやまえき停車ていしゃした急行列車きゅこうれっしゃのものです。

[2-48]
[2-49]
[2-50]

[2-51]
[2-52]
2-48・2-49・2-51・2-52:愛称板(昭和時代/多田直樹氏所蔵資料)
2-50:愛称板(昭和時代/平松直氏所蔵資料)
[2-53]
2-53:
鉄道旗「亀山保線区」
昭和時代
館蔵林家資料
[2-53]
 このはたは、亀山保線区かめやまほせんく鉄道旗てつどうきです。保線区ほせんくとは、つね線路せんろ異常いじょうがないよう、管理かんり修理しゅうりをする担当部署たんとうぶしょのことです。はた中央ちゅうおうには、国鉄こくてつのマークである動輪どうりん日本にほん政府せいふ紋章もんしょうである五七ごひち桐花紋とうかもんえがかれています。
[2-54]
2-54:電光掲示板用案内板
昭和時代
館蔵林家資料
[2-54]
 これは、電光掲示板でんこうけいじばんのはめしき案内版あんないばんです。ひだりから発車時刻はっしゃじこく、グリーンしゃマーク、種別しゅべつ列車名れっしゃめい行先ゆきさき、のりば、案内あんないなどがかれています。
[2-55]
2-55:警報灯
昭和時代
館蔵林家資料
[2-55]
 このライトは、警報機けいほうきなどに使用しようされる 警報灯けいほうとうです。
参考:警報機
[2-56]
てんテツ標識灯しょうしきとうは、列車れっしゃ路線ろせん(ポイント)をきりえるための装置そうち転轍機てんてつき)に使つかわれていたものです。まだ路線ろせんりかえをひとちからでおこなっていたころのもので、亀山駅構内かめやまえきこうない使つかわれていました。4つあるガラスめんには、赤色あかいろ青色あおいろが2つずつあり、このいろ運転士うんてんし列車れっしゃ進行方向しんこうほうこうつたえました。

[2-56]
[2-56]
2-56(左):転テツ標識灯(昭和39年(1964)製/館蔵林家資料)
2-56(右):転テツ標識灯(昭和53年(1978)製/館蔵林家資料)
[2-57]
2-57:手提瓦斯ランプ
昭和時代
館蔵林家資料
[2-57]
手提瓦斯てさげがすランプは、夜間やかん亀山駅構内かめやまえきこうないにおいて、手信号てしんごう列車れっしゃ誘導ゆうどうするとき使つかわれました。
[2-58]
2-58:携帯電灯
昭和39年(1964)製
館蔵林家資料
[2-58]
 この電灯でんとうは、側面そくめんに「鳳電 366」としるされています。鳳電とは、大阪おおさかにあった鳳電車区おおとりでんしゃくという車両基地しゃりょうきちで、 昭和しょうわ25ねん(1950)に天王寺鉄道てんのうじてつどう管理局かんりきょくまれました。この電灯でんとうは、元々もともと鳳電車区おおとりでんしゃく備品びひんであったとかんがえられます。
[2-59]
2-59:
蒸気機関車点検ハンマー
昭和時代
館蔵豊田(道)家資料
[2-59]
 これは、蒸気機関車じょうききかんしゃ異常いじょうがないかを調しらべるためのハンマーです。このハンマーでたたいて、そのおと判断はんだんしました。
[2-60]
2-60:火鉢
昭和時代
館蔵林家資料
[2-60]
側面そくめんに「運輸省うんゆしょう」と工部省こうぶしょうの「こう」のがある鉄製てつせいおおきな火鉢ひばちです。どこにかれていたものかはわかっていません。運輸省うんゆしょう昭和しょうわ20ねん(1945)にできるので、それ以降いこうつくられたものです。
[2-61]
 この2つの腕章わんしょうは、どちらも車掌しゃしょうがする腕章わんしょうです。国鉄時代こくてつじだい旅客列車りょかくれっしゃ乗務じょうむする車掌しゃしょうには、車掌室しゃしょうしつにこもって、ドアのめなどの仕事しごとをする車掌しゃしょうと、車内しゃない切符きっぷ販売はんばいなど、乗客じょうきゃく対応たいおうをする乗客じょうきゃく専務せんむとよばれる車掌しゃしょうがいました。

[2-61]
[2-61]
2-61:車掌腕章・乗客専務腕章(昭和時代/館蔵坂(勉)家資料)
[2-62]
2-62:懐中時計
昭和31年(1956)
館蔵林家資料
[2-62]
 この懐中時計かいちゅうどけいは、うらに「昭和しょうわ31 3182 国鉄こくてつ」ときざまれています。国鉄こくてつ備品びひんだったものか、支給品しきゅうひんかんがえられます。現在げんざいのJRでは、懐中かいちゅう時計どけい運転士うんてんし使用しようしているそうです。
[2-63]
2-63:国鉄運転士制服
昭和時代
館蔵豊田(道)家資料
[2-63]
 この制服せいふくは、腕章わんしょうから、気動車きどうしゃとよばれる、ディーゼルなどのエンジンでうご列車れっしゃ運転士うんてんし制服せいふくであることがわかります。制帽せいぼう昭和しょうわ54ねん(1979)に貸与たいよされています。
[2-64]
2-64:機関士制帽
昭和44年(1969)
館蔵豊田(道)家資料
[2-64]
国鉄時代こくてつじだい蒸気機関車じょうききかんしゃ運転うんてんおこなひと機関士きかんしといいました。この制帽せいぼう機関士きかんしがかぶる帽子ぼうしですが、つけられたマークには、国鉄こくてつあらわ動輪どうりんかざりがありません。
[2-65]
2-65:駅長制帽
昭和時代
館蔵林家資料
[2-65]
国鉄時代こくてつじだい駅長えきちょうがかぶっていた制帽せいぼうです。赤色あかいろおびうえ金色きんいろせんが2ほんはいっていることが特徴とくちょうです。
[2-66]
2-66:
駅長制帽(ミニチュア)
昭和時代
館蔵坂(昌)家資料
[2-66]
 これは、国鉄職員こくてつしょくいんめたときにもらった記念品きねんひん駅長えきちょう制帽せいぼうのミニチュアです。
[2-67]
2-67:
高堤防をのぼる機関車
昭和時代
館蔵中山家資料




[2-67]
加太かぶと高堤防たかていぼうは、現在げんざい立入禁止たちいりきんしですが、むかし撮影さつえいスポットとして有名ゆうめいだったため、おおくのひと蒸気じょうき機関車きかんしゃ撮影さつえいおとずれました。
 この写真しゃしんは、ゆき撮影さつえいされた、蒸気じょうき機関車きかんしゃD511054に牽引けんいんされた貨物車かもつしゃです。この機関車きかんしゃは、通称つうしょうデゴイチとばれ、動輪どうりんが4つあり、ちからつよいため、基本的きほんてき貨物車かもつしゃ牽引けんいんするのに使用しようされました。とく加太かぶと地形ちけい伊賀方向いがほうこうへきついのぼざかになっているので、うしろからも機関車きかんしゃしていました。写真しゃしんでは、わかりにくいかもしれませんが、蒸気じょうきうしろからもがっています。
[2-68]
 この地図ちずは、「日本産業観光大観図にほんさんぎょうかんこうたいかんず三重県亀山市みえけんかめやまし」にしるされた「亀山市街かめやましがい」の亀山駅周辺部分かめやまえきしゅへんぶぶんです。亀山駅かめやまえきのすぐまえ赤丸あかまるをつけた箇所かしょに、亀山駅かめやまえき駅弁えきべん販売はんばいしていた伊藤弁当店いとうべんとうてん宝来軒ほうらいけんがありました。
 なかでも伊藤弁当店いとうべんとうてんは、国鉄指定こくてつしていみせで、亀山駅かめやまえきができた明治めいじ23ねん(1890)から、駅構内えきこうないでの販売はんばい立売営業たちうりえいぎょうゆるされており、弁当べんとう寿司すし、そのほか食品しょくひん雑貨ざっかなどを販売はんばいしていました。
[2-68]
2-68:日本産業観光大観図 三重県亀山市(部分) 昭和30年(1955)
(飯田良樹氏所蔵資料)
[2-69]
2-69:立売人携帯箱
昭和37年(1962)
館蔵いとう弁当店資料
[2-69]
 この木箱きばこは、昭和しょうわ37ねん(1962)に、いとう弁当店べんとうてんつくったものです。革紐かわひもくなってしまっていますが、駅構内えきこうない駅弁えきべんあるくための、駅弁えきべんれる木箱きばこです。木箱きばこには、「名物めいぶつ弁当べんとう しぐれ蛤茶漬はまぐりちゃづけ お茶付ちゃつき ¥150 あたたかく・・・・わすれられぬあじ」とかれています。
[2-70]
2-70:立売人携帯箱
昭和時代
館蔵いとう弁当店資料
[2-70]
 この木箱きばこも、2-69とおなじ、駅構内えきこうない駅弁えきべんあるくときに、駅弁えきべんれる携帯箱けいたいばこです。「弁当べんとう ¥500 おちゃ ¥50」とだけかれています。
[2-71~2-72]
 この紙箱かみばこは、いとう弁当店べんとうてん弁当用べんとうようはこです。ボールがみ厚紙あつがみ)をてたもので、なか仕切しきりのあるプラスチック容器ようきれて使つかいます。現在げんざいでもよくかける弁当箱べんとうばこです。

[2-71]
[2-72]
2-71:「特製幕の内弁当」紙箱(昭和時代/館蔵いとう弁当店資料)
2-72:「味の宴」紙箱(昭和時代/館蔵いとう弁当店資料)
[2-73]
2-73:しぐれ茶漬弁当(再現)
昭和時代~令和2年(2020)
館蔵いとう弁当店資料
[2-73]
 いとう弁当店べんとうてんでは、つい最近さいきん廃業はいぎょうするまで、亀山駅前かめやまえきまえ店舗てんぽでアサリを使つかったしぐれ茶漬ちゃづけ弁当べんとう販売はんばいしていました。はまぐりからアサリにわったのがいつかは不明ふめいですが、はまぐりはいりにくくなったことから、アサリにえたようです。
[2-74~2-77]
 これらは、いとう弁当店べんとうてん弁当べんとうはこ容器ようきうえにかけるかみです。いとう弁当店べんとうてんは、駅構内えきこうない駅弁えきべん立売たちうりほか団体向だんたいむけの弁当べんとう折詰おりづめなどもあつかっていました。また、殿様弁当とのさまべんとうは、駅構内えきこうないでは販売はんばいされませんでした。

[2-74]
[2-75]
[2-76]
[2-77]
2-74~2-77:弁当掛紙(昭和時代/館蔵いとう弁当店資料)
[2-78~2-79]
宝来軒ほうらいけんがいつごろから亀山駅かめやまえき駅弁えきべん販売はんばいはじめたのかは資料しりょうのこっていないので不明ふめいですが、すくなくとも昭和しょうわ30ねん(1955)に発行はっこうされたの日本産業にほんさんぎょう観光かんこう大観図たいかんずには、「鉄道構内てつどうこうない食料品販売しょくりょうひんはんばい」とかれていることから、このころには、すでに駅構内えきこうない販売はんばいしていたとかんがえられます。

[2-78]
[2-79]
2-78:宝来軒「御弁当」掛紙(昭和時代/個人所蔵資料)
2-79:宝来軒「御弁当」掛紙(昭和時代/館蔵いとう弁当店資料)
[2-80]
 この電話交換機でんわこうかんきは、昭和しょうわ50ねん(1975)7がつ26にち亀山駅電話交換所かめやまえきでんわこうかんじょ廃止はいしされるまで、実際じっさい亀山駅かめやまえき使つかわれていたものです。むかし電話でんわは、現在げんざいのように相手あいてには直接ちょくせつつながらず、電話交換手でんわこうかんしゅばれるひとして、相手あいてつないでもらっていました。
駅構内えきこうないからの電話でんわは、まず、構内電話機こうないでんわき右側みぎがわのノブをまわして交換手こうかんしゅします。交換手こうかんしゅは、この交換機こうかんき操作そうさして、相手あいてひと電話でんわつなげていました。なお、レシーバーは交換手こうかんしゅがしていたものです。

[2-80]
[2-80]
2-80(左):電話交換機(昭和時代/館蔵今井(い)家資料)
2-80(右):レシーバー・構内電話機(昭和時代/館蔵今井(い)家資料)
[2-81~2-87]
 これは、国鉄時代こくてつじだい入場券にゅうじょうけんです。昭和しょうわ40ねん(1965)以前いぜんのものはあかいラインがかれています。
 また、入場券にゅじょうけんなのでホームまでははいれても、列車れっしゃることはできません。

[2-81]
[2-82]
[2-83]
2-81~2-83:普通入場券(昭和時代/平松直氏所蔵資料)
[2-84]
[2-85]
[2-86]
[2-87]
2-84~2-87:普通入場券(昭和時代/河村博人氏所蔵資料)
[2-88~2-93]
自動改札機じどうかいさつきができるまでの切符きっぷは、かた厚紙あつがみでできていたため硬券こうけんばれています。そして、紹介しょうかいしている切符きっぷなかには、路線図ろせんずのような地図ちずがかいてあるものがあります(2-89)。これを地図式乗車券ちずしきじゅうしゃけんといいます。このようなちょっとわった切符きっぷ販売はんばいされました。

[2-88]
[2-89]
[2-90]

[2-91]
[2-92]
[2-93]
2-88~2-93:切符(昭和時代~平成時代初期/松直氏所蔵資料)
[2-94~2-95]
 この切符きっぷは、準常備式乗車券じゅんじょうびしきじょうしゃけんです。使用前しようまえ駅名えきめい運賃うんちん数段すうだんならんで印刷いんさつされています。乗客じょうきゃく購入こうにゅうしにくると、窓口まどぐちでは、乗客じょうきゃくさきいて、その駅名えきめいしたって販売はんばいします。
展示てんじしている切符きっぷは、往復切符おうふくきっぷ片道切符かたみちきっぷの2種類しゅるいです。ただし、この切符きっぷは、すでに廃止はいしされているので、現在げんざい購入こうにゅうすることができません。

[2-94]
[2-95]
2-94:柘植駅発行準常備往復乗車券(昭和51年(1976)/平松直氏所蔵資料)
2-95:亀山駅発行準常備片道乗車券(平成元年(1989)/平松直氏所蔵資料)
[2-96]
2-96:
補充片道乗車券(加太→富田)
昭和58年(1983)
平松直氏所蔵資料
[2-96]
補充片道乗車券ほじゅうかたみちじょうしゃけんは、えきにある切符きっぷ対応たいおうできない場合ばあいなどに販売はんばいされます。ここに紹介しょうかいしている補充片道乗車ほじゅうかたみじょうしゃけん加太駅かぶとえき販売はんばいされた富田駅とみたえきまでの乗車券じょうしゃけんです。
[2-97]
 この切符きっぷは、国鉄時代こくてつじだい車内しゃない販売はんばいされた切符きっぷです。

[2-97]
[2-97]
2-97:車内券(2種類)(昭和時代/平松直氏所蔵資料)
[2-98~2-100]
 この切符きっぷは、この地域ちいき販売はんばいされた記念切符きねんきっぷです。

[2-98]
[2-99]
[2-100]
2-98:紀勢線全通記念準急行券(昭和34年(1959)/平松直氏所蔵資料)
2-99:DF50さよなら運転乗車記念券(昭和55年(1980)/河村博人氏所蔵資料)
2-100:関西本線 亀山・関駅開業90年記念入場券(昭和55年(1980)/館蔵田中(敏)家資料)
[2-101]
2-101:改札ハサミ
昭和時代
館蔵豊田(道)家資料
[2-101]
 まだ自動改札機じどうかいさつきのなかったころ改札かいさつでは、駅員えきいん乗客じょうきゃく切符きっぷを1まいまい確認かくにんして、ハサミで切符きっぷみをれていました。このみのかたちは、えきによってまっていて、亀山駅かめやまえき四角しかく下庄駅しものしょうえき山形やまがた加太駅かぶとえきはMのかたちをしていました。ここに紹介しょうかいしているハサミは、下庄駅えきしものしょう実際じっさい使つかわれていたものです。
[2-102]
2-102:
蒸気機関車C50 154(写真)
[2-102]

蒸気機関車じょうききかんしゃC50 154

  撮影場所さつえいばしょ亀山駅かめやまえきホーム
  撮影時期さつえいじき昭和しょうわ45ねん(1970)
          ~昭和しょうわ48ねん(1973)ごろ
  提 提 者ていきょうしゃ岩脇彰氏いわわきあきらし

観音山公園かんのんやまこうえん展示てんじされている蒸気機関車じょうききかんしゃC50 154
[2-103]
2-103:
蒸気機関車C50 154(写真)
[2-103]

蒸気機関車じょうききかんしゃC50 154

  撮影場所さつえいばしょ亀山駅構内かめやまえきこうない給炭槽横きゅうたんそうよこ
  撮影時期さつえいじき昭和しょうわ45ねん(1970)
          ~昭和しょうわ48ねん(1973)ごろ

  提 供 者さつえいしゃ岩脇彰氏いわわきあきらし
[2-104]
2-104:
蒸気機関車C57 198(写真)
[2-104]

蒸気機関車じょうききかんしゃC57  198

  撮影場所さつえいばしょ亀山駅かめやまえきホーム
  撮影時期さつえいじき昭和しょうわ46ねん(1971)
         ~昭和しょうわ47ねん(1972)ごろ
  撮 影 者さつえいしゃ岩脇彰氏いわわきあきらし
[2-105]
2-105:
蒸気機関車D51 1007(写真)
[2-105]

蒸気機関車じょうききかんしゃD51 1007

  撮影場所さつえいばしょ加太市場かぶといちば神福寺前しんぷくじまえ
  撮影時期さつえいじき昭和しょうわ46ねん(1971)
          ~昭和しょうわ47ねん(1972)ごろ
  撮 影 者さつえいしゃ岩脇彰氏いわわきあきらし
[2-106]
2-106:
蒸気機関車D51 906(写真)
[2-106]

蒸気機関車じょうききかんしゃD51 906

  撮影場所さつえいばしょ加太かぶと
  撮影時期さつえいじき昭和しょうわ46ねん(1971)
          ~昭和しょうわ47ねん(1972)ごろ
  撮 影 者さつえいしゃ岩脇彰氏いわわきあきらし
[2-107]
国鉄こくてつは、昭和しょうわ55ねん(1980)3がつ15にちより10ねんあいだ国鉄全線こくてつぜんせん乗車しょうしゃするキャンペーンをおこないました。
 このキャンペーンにチャレンジしたひとの1に、亀山市内在住かめやましないざいじゅう河村博人氏かわむらひろとしがいます。河村氏かわむらしは、高校生こうこうせいだった昭和しょうわ55年(1980)3がつ31にちにチャレンジをはじめました。おもに夏休なつやすみなどの長期休暇ちょうききゅうか利用りようしてかけ、やく年後ねんご昭和しょうわ59ねん(1984)4がつ6日むいか達成たっせいしました。全国ぜんこくで268番目ばんめでした。市内しないでは2人目ふたりめで、河村氏かわむらしよりさきに、3さい年上としうえ男性だんせい全国ぜんこく129番目ばんめ達成たっせいしたそうです。

[2-107]
[2-107]
[2-107]
[2-107]
2-107:いい旅チャレンジ20,000㎞キャンペーン関連資料
(昭和55年(1980)~昭和59年(1984)/河村博人氏所蔵資料)