2.国有化された鉄道
明治40年の(1907)鉄道国有法施行により、関西鉄道は国有鉄道となりました。そして昭和24年、法令が変わって、これまでの国有鉄道は、日本国有鉄道、つまり国鉄になります。この国鉄の時代は、亀山が「鉄道のまち」と呼ばれた時代の最盛期であり、多くの地元住民が国鉄に採用され、その結果、さまざまな鉄道にまつわる資料がのこされています。
このコーナーでは、近年寄贈された鉄道資料を紹介するとともに、のこされた資料から、国の鉄道となってからの市域の鉄道のあゆみを紹介します。
このコーナーでは、近年寄贈された鉄道資料を紹介するとともに、のこされた資料から、国の鉄道となってからの市域の鉄道のあゆみを紹介します。
(1) 関西本線・参宮線となった市域の鉄道
関西鉄道は、明治39年(1906)の鉄道国有法公布により国に買収されました。関西本線という名称は、翌40年(1907)に国有鉄道となった時から始まります。そして、参宮鉄道も同じように国有鉄道となり、亀山駅から山田駅の間は、参宮線となりました。
ここでは、国が鉄道を直接運営していた頃の亀山のようすを路線図や駅構内図を中心に紹介します。
[2-1]
2-1:
亀山停車場改築記念絵葉書
亀山停車場改築記念絵葉書
大正2年(1913)
東海旅客鉄道株式会社
亀山駅所蔵
東海旅客鉄道株式会社
亀山駅所蔵
関西鉄道が国有鉄道になった6年後の大正2年(1913)に、亀山駅は改築します。この改築された駅舎は、外観は変化していますが、現在も使用されています。
2-2:
「亀山駅改築紀念」猪口
「亀山駅改築紀念」猪口
大正2年(1913)
館蔵松上家資料
館蔵松上家資料
この猪口の縁には、「亀山駅改築記念」と書かれています。大正2年(1913)の亀山駅改築の時に記念品として配られた猪口です。底の「工」の文字は、最初に鉄道を管轄した工部省の頭文字です。
2-3:
大正十三年十月一日施行 改訂第七版鉄道線路新地図
大正十三年十月一日施行 改訂第七版鉄道線路新地図
大正13年(1913)
館蔵櫻井(光)家資料
館蔵櫻井(光)家資料
これは、大正13年(1924)に発行された、鉄道の路線図です。鉄道省の所管区域が記されており、亀山駅を境に神戸鉄道局(神鉄局)と名古屋鉄道局(名鉄局)にわかれています。
2-4:
昭和八年八月編 亀山駅々勢要覧
昭和八年八月編 亀山駅々勢要覧
昭和8年(1913)
館蔵桜井(好)家資料
館蔵桜井(好)家資料
この要覧には、亀山駅の建造物や、職員の給料、旅客収入などの統計の他、構内営業についても記載されています。それによれば、構内で駅弁などを販売する立売人は5名、出店については1名の名前が記載されています。
2-6:
駅構内図(KAMEYAMA)
駅構内図(KAMEYAMA)
昭和26年(1951)
館蔵林家資料
館蔵林家資料
2-5の構内図の2年前に作成された、この亀山駅の構内図では、転車台は機関庫(機関車車庫)前の右側に○で表されています。そして、機関庫の東側の場所には、浴場(風呂)がありました。
なお、機関庫の南側の場所には、2-5の構内図で書かれているテニスコートは、まだありません。
[2-7]
2-7:
亀山駅構内全景(写真)
亀山駅構内全景(写真)
昭和38年(1963)
東海旅客鉄道株式会社
亀山駅所蔵
東海旅客鉄道株式会社
亀山駅所蔵
この写真は、昭和38年(1963)に亀山駅の構内を撮影したものです。写真の下側が西、上側が東です。
[2-8]
2-8:駅構内図(SEKI)
昭和26年(1951)
館蔵林家資料
館蔵林家資料
これは、関駅の構内図です。一番線・下り本線・中本線・上り本線・上り貨物線などの記載があり、昔は、線路の数が多かったのですね。
[2-9]
2-9:駅構内図(KABUTO)
昭和25年(1950)
館蔵林家資料
館蔵林家資料
これは、加太駅の構内図です。列車は、加太駅へ曲線を描くように入っていきます。駅構内は、蒸気機関車が走っていた当時のまま、長いホームが今も残っています。
[2-10]
2-10:駅構内図(下庄)
昭和26年(1951)
館蔵林家資料
館蔵林家資料
これは、下庄駅の構内図です。この構内図の貨物ホームにも、亀山駅と同じように浴場(風呂)が書かれています。
[2-11]
2-11:検修車庫前(写真)
昭和時代
御幸地区まちづくり協議会
提供
御幸地区まちづくり協議会
提供
この写真の検修車庫は、構内図では、「機関車車庫」とか、「機関庫」という名前で書かれています。
[2-12]
2-12:給炭槽(写真)
昭和時代
御幸地区まちづくり協議会
提供
御幸地区まちづくり協議会
提供
写真の右側に写っているのは、亀山駅構内にあった給炭槽です。給炭槽とは、蒸気機関車の燃料となる石炭を積むための設備です。
[2-13]
2-13:転車台(写真)
昭和時代
館蔵企画課移管資料
館蔵企画課移管資料
転車台は、蒸気機関車の方向を転換させる機械です。2-11の検修車庫の近くにあり、現在ものこっています。
[2-14]
2-14:荷積み風景(写真)
昭和30年(1955)代
東海旅客鉄道株式会
亀山駅所蔵
東海旅客鉄道株式会
亀山駅所蔵
この写真は、「テルファー」とよばれるクレーンで荷物を運び入れる様子を撮影したものです。
[2-15]
2-15:
坊谷踏切平面図(関西本線関駅・加太駅間)
坊谷踏切平面図(関西本線関駅・加太駅間)
昭和26年(1951)~
昭和31年(1956)頃
館蔵林家資料
昭和31年(1956)頃
館蔵林家資料
この平面図は、関駅と加太駅の間にある坊谷踏切を書いたものです。これには、番舎が書かれています。昔の踏切は、番人とよばれる係の人によって開閉されていました。そのため、踏切のそばには、番人が常駐するための番舎がありました。
[2-16]
2-16:坊谷踏切(現在)
令和2年(2020)撮影
この写真は、現在の坊谷踏切の風景です。
[2-17]
2-17:
白子踏切(参宮線亀山駅・下庄駅間)
白子踏切(参宮線亀山駅・下庄駅間)
昭和26年(1951)~
昭和31年(1956)頃
館蔵林家資料
昭和31年(1956)頃
館蔵林家資料
この白子踏切の平面図には、番舎が書かれていません。常駐する番人がいなかったのでしょうか。もしかしたら遮断機がない踏切だったのかもしれません。
[2-18]
2-18:
白子踏切(現在)
白子踏切(現在)
令和2年(2020)撮影
この写真は、現在の白子踏切の風景です。
(2) お召列車の運行
お召列車とよばれる列車は、天皇などが乗る特別な列車です。のこされた資料によれば、お召列車の運転にあたっては、停止位置の確認などの事前練習や安全祈願がおこなわれ、万全の準備をしていたようです。
ここでは、お召列車にまつわる資料を紹介します。
[2-19]
2-19:お召列車(写真)
昭和34年(1954)
館蔵草川(正)家資料
館蔵草川(正)家資料
この写真は、昭和34年(1954)4月に、皇太子(現在の上皇)ご夫妻が、結婚の報告に伊勢神宮へ行く時に乗られた蒸気機関車を撮影したものです。写真の場所は、亀山製絲株式会社近くの鈴鹿川橋梁です。
写真には、お召列車と記載されていますが、皇太子ご夫妻が乗られる列車は、正式には、「御乗用列車」と呼びます。
[2-20]
実際にお召列車につけられた国旗と房です。実際に使われていたものなので、国旗は煤で汚れ、焦げて穴が空いています。
実際にお召列車につけられた国旗と房です。実際に使われていたものなので、国旗は煤で汚れ、焦げて穴が空いています。
[2-20]
[2-20]
2-20:お召列車 国旗・房(昭和20年(1945)ヵ/館蔵松山家資料)
2-21:
お召機関車プレート「C51 100」(レプリカ)
お召機関車プレート「C51 100」(レプリカ)
昭和27年(1952)
館蔵宮崎(平)家資料
館蔵宮崎(平)家資料
亀山機関区が所有するお召機関車は、C51 100機関車でした。このプレートはレプリカですが、裏面に貼られた説明書きをみると、昭和27年(1952)に皇太子が伊勢神宮へ立太子の報告に行ったときの機関車のプレートです。
[2-22]
2-22:
お召列車機関車修拔式(写真)
お召列車機関車修拔式(写真)
昭和15年(1940)
館蔵松山家資料
館蔵松山家資料
お召列車の運行にあたっては、神主をよんで、安全祈願をおこないます。これを修祓式といいます。
[2-23]
2-23:
お召列車出発前の松山栄次郎氏(写真)
お召列車出発前の松山栄次郎氏(写真)
昭和20年(1945)
館蔵松山家資料
館蔵松山家資料
この写真は、昭和20年(1945)11月の天皇行幸に際しての一コマです。写真に写る松山栄次郎氏は、国鉄に勤務していた時に15回もお召列車を運転しています。
(3) 戦争と鉄道
日本が戦争をしていた時代、亀山の鉄道も戦争とは無縁ではありませんでした。ここでは、戦争にまつわる鉄道資料を紹介します。
2-24:
支那事変従軍記念朱塗り盃
支那事変従軍記念朱塗り盃
昭和14年(1939)
館蔵松上家資料
館蔵松上家資料
銘「昭和十四年 支那事変従軍記念
昭和12年(1939)に始まった中国との戦争を支那事変といいます。この盃は、国有鉄道の銃後後援会より、支那事変で戦地へ行った記念として昭和14年(1941)に配られました。国有鉄道銃後後援会」
なお、盃の内側には、国有鉄道のマークが入っています。
[2-25]
2-25:薬莢
昭和20年(1945)
館蔵豊田(豊)家資料
館蔵豊田(豊)家資料
昭和20年(1945)8月2日のお昼過ぎに亀山駅を出発した鳥羽行きの蒸気機関車がアメリカ軍によって空から銃撃され、多くの死傷者を出しました。この薬莢は、その時使用された機銃弾のものです。
なお、地図の青く塗った場所が、ボイラーを被弾し、動けなくなった蒸気機関車が停止した場所です。
機関車停止場所
2-26:
行幸記念写真帖 亀山駅
行幸記念写真帖 亀山駅
昭和26年(1951)
館蔵坂(義)家資料
館蔵坂(義)家資料
昭和26年(1951)、昭和天皇が戦後の慰問のために全国を巡幸しました。この写真帖は、昭和天皇が、お召列車で亀山へ来た時に撮影されたものが収録されています。
撮影者は坂義昌氏、発行は日本国有鉄道亀山駅です。
(4) 鉄道の電化
関西本線の亀山駅と名古屋駅の間の電化は、昭和49年(1974)5月に内定し、昭和57年(1982)に完成しました。この記念として、同年5月17日に「亀山市民号」が運行されました。
[2-27]
2-27:
電化第1号柱プレート(レプリカ)
電化第1号柱プレート(レプリカ)
昭和52年(1977)
館蔵企画課移管資料
館蔵企画課移管資料
昭和52年(1977)2月1日に、井田川駅で関西本線名古屋駅・亀山駅間の電化起工式が行われ、上り線ホーム東端に立てられた架線用第1号電柱の除幕式がおこなわれました。このプレートは、この第1号電柱に取りつけられたプレートのレプリカです。国鉄東京電気工事局から、関西本線の電化を記念して亀山市に贈られました。
[2-28]
2-28:
ヘッドマーク「亀山市民号」
ヘッドマーク「亀山市民号」
昭和57年(1982)
館蔵資料
館蔵資料
昭和57年(1982)5月17日に、関西本線名古屋駅・亀山駅間の電化完成を記念した式典がおこなわれ、1番電車となる「亀山市民号」が運行されました。このヘッドマークは、この1番電車に取りつけられたものです。
2-29:
関西本線電化記念入場券(亀山駅)
関西本線電化記念入場券(亀山駅)
昭和57年(1982)
平松直氏所蔵資料
平松直氏所蔵資料
昭和57年(1982)5月17日に、関西本線名古屋駅・亀山駅間の電化完成式典が亀山駅でおこなわれました。これは、その時の3枚セットになった亀山駅入場券です。
(5) 駅や列車にまつわる懐かしい道具
「鉄道のまち」とよばれたこの地域では、国鉄など鉄道に関わる仕事に就いた人が多くいました。そのため、当館にも、これまで多くの方々から鉄道にまつわるものを歴史博物館資料としてご寄贈いただきました。
そこで、ここでは、当館が収蔵する鉄道資料や、この度の展示のためにご提供いただきました関係品を紹介しています。
[2-30]
2-30:看板「電報取扱駅」
昭和時代
界外巖氏所蔵資料
界外巖氏所蔵資料
この看板は、亀山駅のホームの柱に取りつけられていたものです。国鉄時代のまだ電話が少なかった頃、旅行中の緊急の連絡は、この看板がある駅であれば、駅から電報をうつことができました。
[2-31~2-34]
この看板は、改札口にかけられていました。改札の時間になると駅員さんがこの板をかけて、乗客に改札が始まったことを知らせていました。
この看板は、改札口にかけられていました。改札の時間になると駅員さんがこの板をかけて、乗客に改札が始まったことを知らせていました。
[2-31]
[2-32]
2-31~2-34:改札案内版(昭和時代/館蔵林家資料)
[2-35]
2-35:
蒸気機関車車掌車用尾灯
蒸気機関車車掌車用尾灯
昭和時代
館蔵坂(勉)家資料
館蔵坂(勉)家資料
このライトは、蒸気機関車の車掌車の後ろに取りつけられていたライトです。
[2-36]
2-36:貨車尾灯
昭和時代
館蔵林家資料
館蔵林家資料
このライトは、貨車(貨物列車の車輌)の後ろにつけられていたライトです。
2-37:キャリア
昭和時代
館蔵早川(賢)家資料
館蔵早川(賢)家資料
線路がひとつだと、上り列車と下り列車はすれちがいができないので、ぶつかってしまいます。このような正面衝突を防ぐための方法として通票閉塞式というルールがありました。
このルールでは、運転士は、駅長から円盤の形をした通票を受け取らないと次の駅に列車を走らせることができませんでした。キャリアは、この通票を入れる専用ケースで、下庄駅で使われていたものです。
[2-38(参考)]
2-38(参考):
第3種通票(タブレット)
第3種通票(タブレット)
昭和時代
平松直氏所蔵資料
平松直氏所蔵資料
通票は、タブレットともいいます。この通票は、金属製の円盤に三角形の穴が空いています。穴の形は、使用区間によって他に丸(第1種)・四角(第2種)・楕円(第4種)と決められていました。
なお、この通票は市域の駅で使われていたものではありません。
[2-39]
2-39:
蒸気機関車C58 359(鉄道100年機関車祭記念絵葉書)
蒸気機関車C58 359(鉄道100年機関車祭記念絵葉書)
昭和時代
館蔵草川(正)家資料
館蔵草川(正)家資料
この絵葉書に写っている蒸気機関車C58 359は、現在、亀山西小学校のとなりの公園で展示されている機関車で、昭和19年(1944)に製造され、昭和45年(1970)10月まで使われていました。
ますみ児童園に展示されている蒸気機関車C58 359
[2-40]
2-40:
蒸気機関車C58 359プレート
昭和時代
館蔵資料
館蔵資料
これは、亀山西小学校のとなりの公園に展示されている蒸気機関車の側面に実際につけられていたプレートです。「C」は、動輪の数で3つ、「58」は機関車の形式、「359」は製造番号を表しています。
[2-41]
2-41:機関車区名板「亀」
昭和時代
多田直樹氏所蔵資料
多田直樹氏所蔵資料
区名板は、運転室の窓の下にとりつけられた、はめ込み式の板のことです。この板は、機関車の所属先を表しています。「亀」の字は、これをつけてた機関車が亀山機関区の車輌であることを表しています。
[2-42~2-47]
サボとは、列車の行き先を示したもので、列車の前面や側面にかけられていました。最初は鉄(ホーロー)製でしたが、後にプラスチック製になりました。そして現在では、ロール式の布製の幕や、電光掲示板に変わっています。
サボとは、列車の行き先を示したもので、列車の前面や側面にかけられていました。最初は鉄(ホーロー)製でしたが、後にプラスチック製になりました。そして現在では、ロール式の布製の幕や、電光掲示板に変わっています。
2-42・2-43:サボ(昭和時代/館蔵林家資料)
2-44~2-47:サボ(昭和時代/多田直樹氏所蔵資料)
[2-48~2-52]
列車にとりつけられた、特急などの列車名が書かれた板を愛称板とよびます。ここに紹介している愛称板は、昔、亀山駅に停車した急行列車のものです。
列車にとりつけられた、特急などの列車名が書かれた板を愛称板とよびます。ここに紹介している愛称板は、昔、亀山駅に停車した急行列車のものです。
[2-48]
[2-49]
[2-50]
[2-51]
[2-52]
2-48・2-49・2-51・2-52:愛称板(昭和時代/多田直樹氏所蔵資料)
2-50:愛称板(昭和時代/平松直氏所蔵資料)
2-50:愛称板(昭和時代/平松直氏所蔵資料)
2-53:
鉄道旗「亀山保線区」
鉄道旗「亀山保線区」
昭和時代
館蔵林家資料
館蔵林家資料
この旗は、亀山保線区の鉄道旗です。保線区とは、常に線路に異常がないよう、管理や修理をする担当部署のことです。旗の中央には、国鉄のマークである動輪と日本政府の紋章である五七桐花紋が描かれています。
[2-54]
2-54:電光掲示板用案内板
昭和時代
館蔵林家資料
館蔵林家資料
これは、電光掲示板のはめ込み式の案内版です。左から発車時刻、グリーン車マーク、種別、列車名、行先、のりば、乗り換え案内などが書かれています。
[2-55]
2-55:警報灯
昭和時代
館蔵林家資料
館蔵林家資料
このライトは、警報機などに使用される 警報灯です。
参考:警報機
[2-56]
転テツ標識灯は、列車が路線(ポイント)を切り変えるための装置(転轍機)に使われていたものです。まだ路線の切りかえを人の力でおこなっていた頃のもので、亀山駅構内で使われていました。4つあるガラス面には、赤色と青色が2つずつあり、この色で運転士に列車の進行方向を伝えました。
転テツ標識灯は、列車が路線(ポイント)を切り変えるための装置(転轍機)に使われていたものです。まだ路線の切りかえを人の力でおこなっていた頃のもので、亀山駅構内で使われていました。4つあるガラス面には、赤色と青色が2つずつあり、この色で運転士に列車の進行方向を伝えました。
[2-56]
[2-56]
2-56(左):転テツ標識灯(昭和39年(1964)製/館蔵林家資料)
2-56(右):転テツ標識灯(昭和53年(1978)製/館蔵林家資料)
2-56(右):転テツ標識灯(昭和53年(1978)製/館蔵林家資料)
[2-57]
2-57:手提瓦斯ランプ
昭和時代
館蔵林家資料
館蔵林家資料
手提瓦斯ランプは、夜間の亀山駅構内において、手信号で列車を誘導する時に使われました。
2-58:携帯電灯
昭和39年(1964)製
館蔵林家資料
館蔵林家資料
この電灯は、側面に「鳳電 366」と記されています。鳳電とは、大阪にあった鳳電車区という車両基地で、 昭和25年(1950)に天王寺鉄道管理局に組み込まれました。この電灯は、元々は鳳電車区の備品であったと考えられます。
[2-59]
2-59:
蒸気機関車点検ハンマー
蒸気機関車点検ハンマー
昭和時代
館蔵豊田(道)家資料
館蔵豊田(道)家資料
これは、蒸気機関車に異常がないかを調べるためのハンマーです。このハンマーでたたいて、その音で判断しました。
2-60:火鉢
昭和時代
館蔵林家資料
館蔵林家資料
側面に「運輸省」と工部省の「工」の字がある鉄製の大きな火鉢です。どこに置かれていたものかはわかっていません。運輸省は昭和20年(1945)にできるので、それ以降に造られたものです。
[2-61]
この2つの腕章は、どちらも車掌がする腕章です。国鉄時代の旅客列車に乗務する車掌には、車掌室にこもって、ドアの開け閉めなどの仕事をする車掌と、車内で切符の販売など、乗客の対応をする乗客専務とよばれる車掌がいました。
この2つの腕章は、どちらも車掌がする腕章です。国鉄時代の旅客列車に乗務する車掌には、車掌室にこもって、ドアの開け閉めなどの仕事をする車掌と、車内で切符の販売など、乗客の対応をする乗客専務とよばれる車掌がいました。
[2-61]
[2-61]
2-61:車掌腕章・乗客専務腕章(昭和時代/館蔵坂(勉)家資料)
2-62:懐中時計
昭和31年(1956)
館蔵林家資料
館蔵林家資料
この懐中時計は、裏に「昭和31 3182 国鉄」と刻まれています。国鉄の備品だったものか、支給品と考えられます。現在のJRでは、懐中時計は運転士が使用しているそうです。
[2-63]
2-63:国鉄運転士制服
昭和時代
館蔵豊田(道)家資料
館蔵豊田(道)家資料
この制服は、腕章から、気動車とよばれる、ディーゼルなどのエンジンで動く列車の運転士の制服であることがわかります。制帽は昭和54年(1979)に貸与されています。
[2-64]
2-64:機関士制帽
昭和44年(1969)
館蔵豊田(道)家資料
館蔵豊田(道)家資料
国鉄時代、蒸気機関車の運転を行う人を機関士といいました。この制帽は機関士がかぶる帽子ですが、つけられたマークには、国鉄を表す動輪の飾りがありません。
[2-65]
2-65:駅長制帽
昭和時代
館蔵林家資料
館蔵林家資料
国鉄時代の駅長がかぶっていた制帽です。赤色の帯の上に金色の線が2本入っていることが特徴です。
[2-66]
2-66:
駅長制帽(ミニチュア)
駅長制帽(ミニチュア)
昭和時代
館蔵坂(昌)家資料
館蔵坂(昌)家資料
これは、国鉄職員を辞めた時にもらった記念品で駅長の制帽のミニチュアです。
[2-67]
2-67:
高堤防をのぼる機関車
高堤防をのぼる機関車
昭和時代
館蔵中山家資料
館蔵中山家資料
加太の高堤防は、現在は立入禁止ですが、昔は撮影スポットとして有名だったため、多くの人が蒸気機関車の撮影に訪れました。
この写真は、雪の降る日に撮影された、蒸気機関車D511054に牽引された貨物車です。この機関車は、通称デゴイチと呼ばれ、動輪が4つあり、牽く力が強いため、基本的に貨物車を牽引するのに使用されました。特に加太の地形は伊賀方向へきつい上り坂になっているので、後ろからも機関車で押していました。写真では、わかりにくいかもしれませんが、蒸気が後ろからも上がっています。
[2-68]
この地図は、「日本産業観光大観図 三重県亀山市」に記された「亀山市街図」の亀山駅周辺部分です。亀山駅のすぐ前の赤丸をつけた箇所に、亀山駅で駅弁を販売していた伊藤弁当店と宝来軒がありました。
なかでも伊藤弁当店は、国鉄指定の店で、亀山駅ができた明治23年(1890)から、駅構内での販売や立売営業を許されており、弁当や寿司、その他の食品や雑貨などを販売していました。
この地図は、「日本産業観光大観図 三重県亀山市」に記された「亀山市街図」の亀山駅周辺部分です。亀山駅のすぐ前の赤丸をつけた箇所に、亀山駅で駅弁を販売していた伊藤弁当店と宝来軒がありました。
なかでも伊藤弁当店は、国鉄指定の店で、亀山駅ができた明治23年(1890)から、駅構内での販売や立売営業を許されており、弁当や寿司、その他の食品や雑貨などを販売していました。
[2-68]
2-68:日本産業観光大観図 三重県亀山市(部分) 昭和30年(1955)
(飯田良樹氏所蔵資料)
[2-69]
2-69:立売人携帯箱
昭和37年(1962)
館蔵いとう弁当店資料
館蔵いとう弁当店資料
この木箱は、昭和37年(1962)に、いとう弁当店が作ったものです。革紐は無くなってしまっていますが、駅構内で駅弁を売り歩くための、駅弁を入れる木箱です。木箱には、「名物弁当 しぐれ蛤茶漬 お茶付 ¥150 暖かく・・・・忘られぬ味」と書かれています。
[2-70]
2-70:立売人携帯箱
昭和時代
館蔵いとう弁当店資料
館蔵いとう弁当店資料
この木箱も、2-69と同じ、駅構内で駅弁を売り歩くときに、駅弁を入れる携帯箱です。「弁当 ¥500 お茶 ¥50」とだけ書かれています。
[2-71~2-72]
この紙箱は、いとう弁当店の弁当用の箱です。ボール紙(厚紙)を組み立てたもので、中に仕切りのあるプラスチック容器を入れて使います。現在でもよく見かける弁当箱です。
この紙箱は、いとう弁当店の弁当用の箱です。ボール紙(厚紙)を組み立てたもので、中に仕切りのあるプラスチック容器を入れて使います。現在でもよく見かける弁当箱です。
[2-71]
[2-72]
2-71:「特製幕の内弁当」紙箱(昭和時代/館蔵いとう弁当店資料)
2-72:「味の宴」紙箱(昭和時代/館蔵いとう弁当店資料)
2-72:「味の宴」紙箱(昭和時代/館蔵いとう弁当店資料)
[2-73]
2-73:しぐれ茶漬弁当(再現)
昭和時代~令和2年(2020)
館蔵いとう弁当店資料
いとう弁当店では、つい最近廃業するまで、亀山駅前の店舗でアサリを使ったしぐれ茶漬弁当を販売していました。蛤からアサリに代わったのがいつかは不明ですが、蛤が手に入りにくくなったことから、アサリに代えたようです。
[2-74~2-77]
これらは、いとう弁当店の弁当の箱や容器の上にかける紙です。いとう弁当店は、駅構内で駅弁の立売の他、団体向けの弁当や折詰なども取り扱っていました。また、殿様弁当は、駅構内では販売されませんでした。
これらは、いとう弁当店の弁当の箱や容器の上にかける紙です。いとう弁当店は、駅構内で駅弁の立売の他、団体向けの弁当や折詰なども取り扱っていました。また、殿様弁当は、駅構内では販売されませんでした。
[2-74]
[2-75]
[2-76]
[2-77]
2-74~2-77:弁当掛紙(昭和時代/館蔵いとう弁当店資料)
[2-78~2-79]
宝来軒がいつ頃から亀山駅で駅弁の販売を始めたのかは資料が残っていないので不明ですが、少なくとも昭和30年(1955)に発行されたの日本産業観光大観図には、「鉄道構内・食料品販売」と書かれていることから、この頃には、すでに駅構内で販売していたと考えられます。
宝来軒がいつ頃から亀山駅で駅弁の販売を始めたのかは資料が残っていないので不明ですが、少なくとも昭和30年(1955)に発行されたの日本産業観光大観図には、「鉄道構内・食料品販売」と書かれていることから、この頃には、すでに駅構内で販売していたと考えられます。
[2-78]
[2-79]
2-78:宝来軒「御弁当」掛紙(昭和時代/個人所蔵資料)
2-79:宝来軒「御弁当」掛紙(昭和時代/館蔵いとう弁当店資料)
2-79:宝来軒「御弁当」掛紙(昭和時代/館蔵いとう弁当店資料)
[2-80]
この電話交換機は、昭和50年(1975)7月26日に亀山駅電話交換所が廃止されるまで、実際に亀山駅で使われていたものです。昔の電話は、現在のように相手には直接つながらず、電話交換手と呼ばれる人を呼び出して、相手に繋いでもらっていました。
駅構内からの電話は、まず、構内電話機の右側のノブを回して交換手を呼び出します。交換手は、この交換機を操作して、相手の人に電話を繋げていました。なお、レシーバーは交換手がしていたものです。
この電話交換機は、昭和50年(1975)7月26日に亀山駅電話交換所が廃止されるまで、実際に亀山駅で使われていたものです。昔の電話は、現在のように相手には直接つながらず、電話交換手と呼ばれる人を呼び出して、相手に繋いでもらっていました。
駅構内からの電話は、まず、構内電話機の右側のノブを回して交換手を呼び出します。交換手は、この交換機を操作して、相手の人に電話を繋げていました。なお、レシーバーは交換手がしていたものです。
[2-80]
[2-80]
2-80(左):電話交換機(昭和時代/館蔵今井(い)家資料)
2-80(右):レシーバー・構内電話機(昭和時代/館蔵今井(い)家資料)
2-80(右):レシーバー・構内電話機(昭和時代/館蔵今井(い)家資料)
[2-81~2-87]
これは、国鉄時代の入場券です。昭和40年(1965)以前のものは赤いラインが引かれています。
また、入場券なのでホームまでは入れても、列車に乗ることはできません。
これは、国鉄時代の入場券です。昭和40年(1965)以前のものは赤いラインが引かれています。
また、入場券なのでホームまでは入れても、列車に乗ることはできません。
2-81~2-83:普通入場券(昭和時代/平松直氏所蔵資料)
2-84~2-87:普通入場券(昭和時代/河村博人氏所蔵資料)
[2-88~2-93]
自動改札機ができるまでの切符は、硬い厚紙でできていたため硬券と呼ばれています。そして、紹介している切符の中には、路線図のような地図がかいてあるものがあります(2-89)。これを地図式乗車券といいます。このようなちょっと変わった切符も販売されました。
自動改札機ができるまでの切符は、硬い厚紙でできていたため硬券と呼ばれています。そして、紹介している切符の中には、路線図のような地図がかいてあるものがあります(2-89)。これを地図式乗車券といいます。このようなちょっと変わった切符も販売されました。
2-88~2-93:切符(昭和時代~平成時代初期/松直氏所蔵資料)
[2-94~2-95]
この切符は、準常備式乗車券です。使用前は駅名と運賃が数段に並んで印刷されています。乗客が購入しにくると、窓口では、乗客の行き先を聞いて、その駅名の下で切り取って販売します。
展示している切符は、往復切符と片道切符の2種類です。ただし、この切符は、すでに廃止されているので、現在は購入することができません。
この切符は、準常備式乗車券です。使用前は駅名と運賃が数段に並んで印刷されています。乗客が購入しにくると、窓口では、乗客の行き先を聞いて、その駅名の下で切り取って販売します。
展示している切符は、往復切符と片道切符の2種類です。ただし、この切符は、すでに廃止されているので、現在は購入することができません。
2-94:柘植駅発行準常備往復乗車券(昭和51年(1976)/平松直氏所蔵資料)
2-95:亀山駅発行準常備片道乗車券(平成元年(1989)/平松直氏所蔵資料)
2-95:亀山駅発行準常備片道乗車券(平成元年(1989)/平松直氏所蔵資料)
2-96:
補充片道乗車券(加太→富田)
補充片道乗車券(加太→富田)
昭和58年(1983)
平松直氏所蔵資料
平松直氏所蔵資料
補充片道乗車券は、駅にある切符で対応できない場合などに販売されます。ここに紹介している補充片道乗車券は加太駅で販売された富田駅までの乗車券です。
[2-98~2-100]
この切符は、この地域で販売された記念切符です。
この切符は、この地域で販売された記念切符です。
2-98:紀勢線全通記念準急行券(昭和34年(1959)/平松直氏所蔵資料)
2-99:DF50さよなら運転乗車記念券(昭和55年(1980)/河村博人氏所蔵資料)
2-100:関西本線 亀山・関駅開業90年記念入場券(昭和55年(1980)/館蔵田中(敏)家資料)
2-99:DF50さよなら運転乗車記念券(昭和55年(1980)/河村博人氏所蔵資料)
2-100:関西本線 亀山・関駅開業90年記念入場券(昭和55年(1980)/館蔵田中(敏)家資料)
[2-101]
2-101:改札ハサミ
[2-101]昭和時代
館蔵豊田(道)家資料
館蔵豊田(道)家資料
まだ自動改札機のなかった頃の改札では、駅員が乗客の切符を1枚1枚確認して、ハサミで切符に切り込みを入れていました。この切り込みの形は、駅によって決まっていて、亀山駅は四角、下庄駅は山形、加太駅はMの形をしていました。ここに紹介しているハサミは、下庄駅えきで実際に使われていたものです。
[2-102]
2-102:
[2-102]蒸気機関車C50 154(写真)
蒸気機関車C50 154
撮影時期:昭和45年(1970)
~昭和48年(1973)頃
提 提 者:岩脇彰氏
観音山公園に展示されている蒸気機関車C50 154
[2-103]
2-103:
[2-103]蒸気機関車C50 154(写真)
蒸気機関車C50 154
撮影時期:昭和45年(1970)
~昭和48年(1973)頃
提 供 者:岩脇彰氏
[2-104]
2-104:
[2-104]蒸気機関車C57 198(写真)
蒸気機関車C57 198
撮影時期:昭和46年(1971)
~昭和47年(1972)頃
撮 影 者:岩脇彰氏
[2-105]
2-105:
[2-105]蒸気機関車D51 1007(写真)
蒸気機関車D51 1007
撮影時期:昭和46年(1971)
~昭和47年(1972)頃
撮 影 者:岩脇彰氏
[2-106]
2-106:
[2-106]蒸気機関車D51 906(写真)
蒸気機関車D51 906
撮影時期:昭和46年(1971)
~昭和47年(1972)頃
撮 影 者:岩脇彰氏
[2-107]
国鉄は、昭和55年(1980)3月15日より10年の間、国鉄全線に乗車するキャンペーンをおこないました。
このキャンペーンにチャレンジした人の1人に、亀山市内在住の河村博人氏がいます。河村氏は、高校生だった昭和55年(1980)3月31日にチャレンジを始めました。おもに夏休みなどの長期休暇を利用して出かけ、約4年後の昭和59年(1984)4月6日に達成しました。全国で268番目でした。市内では2人目で、河村氏より先に、3歳年上の男性が全国129番目に達成したそうです。
国鉄は、昭和55年(1980)3月15日より10年の間、国鉄全線に乗車するキャンペーンをおこないました。
このキャンペーンにチャレンジした人の1人に、亀山市内在住の河村博人氏がいます。河村氏は、高校生だった昭和55年(1980)3月31日にチャレンジを始めました。おもに夏休みなどの長期休暇を利用して出かけ、約4年後の昭和59年(1984)4月6日に達成しました。全国で268番目でした。市内では2人目で、河村氏より先に、3歳年上の男性が全国129番目に達成したそうです。
[2-107]
[2-107]
[2-107]
2-107:いい旅チャレンジ20,000㎞キャンペーン関連資料
(昭和55年(1980)~昭和59年(1984)/河村博人氏所蔵資料)
(昭和55年(1980)~昭和59年(1984)/河村博人氏所蔵資料)